第一章 Welcome to my nightmare 15
「一体、何がどうなってんねん」
「お止しなさい」
東大寺と紫苑は、ほぼ同時に叫んでいた。紫苑のただならぬ剣幕に、東大寺は思わず首を竦めて謝った。
「すまん」
「馬鹿なことはお止めなさい。あなたが死んでもどうにもならないでしょう」
「はいっ? 俺ちゃうの」
紫苑は、今にも短刀を胸に突き立てようとしている愛美に向けてそう言うと、足を前に踏み出した。九寸五分の白木の柄の短刀は、教室で見かけたのと確かに同じ物だ。だが車に乗り込んだ時には、愛美はそんな物は絶対に持ってはいなかった。
(まさか、あの噂は本当だったのでしょうか。この少女があの夜久野の)
紫苑は愛美の傍らに膝を着き、その手から短刀を取り上げようとした。愛美はさっと身を躱し、今度は刃物の切っ先を頸動脈に押し当てる。
「私は、私は一体何なのですか! 私は誰なの、もう何がなんだか分からない」
感情を迸らせる愛美に、紫苑は優しく囁いた。彼女に今一番必要な言葉が、紫苑にはよく分かる。
愛美は、え?と言うように顔を上げた。紫苑はゆっくり微笑を浮かべて、もう一度その言葉を繰り返した。
「あなたは、あなたですよ。例えどんな名前で呼ばれようと、あなたはあなたなんですよ。他の誰でもない。分かるでしょう? 私が何を言いたいのか」
紫苑の目の前で愛美は腕の力を抜くと、そっと刃物を握る手を下ろした。
「これにて一件落着~っと」
東大寺が、不謹慎な程明るい声で、某時代劇の台詞を吐いた。紫苑がむっとして睨んだが、東大寺は全くそれを気にしていない。それどころか、なぜか盛んに鼻をひくつかせていた。
「今度は、一体何を嗅ぎつけたんですか。優秀な警察犬殿は」
今の言葉には思いきり皮肉を込めたつもりだったが、東大寺はそうは受け取らなかったらしい。
「そんな、誉めてくれんでもええで。なんや、焦げ臭いなあと思っただけやから」
そう言えば、何か燃えているような匂いがする。それとともに、何処からかパチパチと爆ぜるような音が・・・。
「も・・もしかして、火事ではありませんか」
「あ、お前もそう思う? 俺も、そう言おうと思ってたとこや」
東大寺の能天気な返事に、紫苑は頬を引き攣らせる。
――まあまあ、まだこの家が燃えとると決まった訳やないんやから。
東大寺はそう言いながら、廊下へ続くドアを開いた。
ゴオッと音を立てて、熱風がリビングに流れ込む。
まるで生き物のように、廊下中を炎の触手が舐め回していた。
肉の焦げる、嫌な匂い。
途端に、呆然としていた愛美が、気を取り直す。
「お母さん!」
――行ったら、あかん。
東大寺は廊下へ出ようとした愛美を抱き止め、慌ててドアを閉め直した。