第四章 Over the Horizon 46
一人残された綾瀬は、それでも手からライターを離さなかった。
綾瀬は二十四才の時、死んだ父親の代わりに上月家の眷族衆の一つ白虎衆、西の桐生家当主となった。父親の形見のライターは、今は別の意味も持っている。十年ぶりに綾瀬の元に戻って来た。
『兄さん・・・会いに来てくれたんだ』
上月家から出てきた晃は、綾瀬の姿を見ると素直に喜んだ。昔、二人がずっと子供だった頃のように、晃は心からの尊敬の念を込めて綾瀬のことを亨兄さんと呼んだ。
『晃・・・』
綾瀬は言葉を失くした。そして、自分は綾瀬と言う人間ではなく桐生亨なのだと言うことを久々に思い出した。
暗黙の了解の内に、二人は黙って歩き始めた。
最初に口を開いたのは、晃だった。十年分の凝り固まった恨みつらみや誤解を、解きほぐそうとするかのようだった。
『俺はどうしても兄さんを越えたかった。兄さんを越えて、親父に認めて欲しかった。でも違ったんだ。妾腹の子として俺を愛してくれなかった親父より、俺は兄さんに認めて欲しかったんだ』
家族を失ったあの少女は、晃への復讐を断念したらしい。それが綾瀬にとって、良かったのか悪かったのか分からない。自分の地位と視覚を奪った晃への復讐の気持ちが、毛頭なかったとは言わない。
しかし、いつか晃に言ったように強がりではなく不自由はなかった。亨兄さんと呼ばれる以前から、綾瀬の晃への憎しみは氷解していた気がする。
『那鬼とはまた懐かしい名前を使ったものだ』
あれはいつのことだったろう。
上月に伝わる伝承の中に、九那鬼と言う鬼の血を引く若者が、平安時代末期没落しかけた上月家の再興に手を貸したと言うものがある。
綾瀬がただの亨兄さんだった頃、晃に昔語りをしたものだ。
『憶えていてくれたんだ?』
晃は本当に嬉しそうだった。なぜか綾瀬は、もう一度兄弟仲良くやっていけそうな気さえした。
『俺がつけたんだ。忘れる訳がない。九鬼と那鬼だろう』
兄弟二人、力を合わせて上月を盛り立てていこうと誓い合った。
『嬉しかったよ。桐生の家に引き取られて、あんたみたいな立派な人を兄さんと呼べる俺はなんて幸せだろうと。子供の俺を構ってくれて、二人だけの時はお互いを別の名前で呼び合ったりして・・・楽しかったよ」
陰陽師としての厳しい鍛練。古臭いしきたり。
いきなり出来た、まだ幼い弟と過ごす時間は、亨を桐生と言う家の束縛から自由にしてくれた。
桐生の名を捨て綾瀬となった亨と同じで、晃も桐生ではなく那鬼でありたかったのだろうか。