第四章 Over the Horizon 45
「東大寺さんに、買物に付き合ってもらうの。そう言えば、エレベターホールで西川さんと会いましたけど、大量に新聞抱えてましたよ。手伝えば良かったかな?」
「私が頼んで地方紙をとっていたんだが、もう必要ないからな」
簡単且つ明瞭に綾瀬は答える。愛美はそれに対して、素直な感想を述べた。
「新聞読めるんですか?」
しまったと愛美は思ったが、もう後の祭りだ。綾瀬は完全に失明しているのではなく、光に過敏になっているのだ。だから、濃いサングラスで光量を調節している。
「愛美、そこに座れ」
愛美は綾瀬の語気の強さに、思わず素直にソファに腰を下ろした。綾瀬の言葉には強制的な響きがある。何をするのかと危ぶむ愛美に、綾瀬は椅子から立ち上がると、愛美をソファに押し倒した。
サングラスに遮られて顔の表情は分からないが、綾瀬は本気だ。愛美のコートのボタンを、躊躇も間違いもなく外していく。
「この前の続きをするか?」
綾瀬にこの前キスされた時の言葉が、愛美の脳裏に甦った。
『大人の味を教えてやる』
愛美は色を失くした。
「ご・・・ごめんなさい。今のは間違い」
綾瀬は黒眼鏡のつるに手を掛けて、外そうとしていた。その時。
「大人は不潔だ」
救いの巴和馬大明神に、愛美は拝みたいぐらいの気分だった。綾瀬が小さく舌打ちしたが、愛美を抱く指から力が抜けたことを幸いに、綾瀬の下から這い出た。
そそくさとコートの前を止め、元気よく手を振って綾瀬の部屋を後にする。
「私、買い物に行ってきます」
綾瀬はプッと吹き出して、ふられてしまったと巴に笑いかけたが、巴は肩を竦めただけだった。
(大人のすることも、考えることも分からない)
クラディスは浮気な主人に愛想を尽かしたのか、御自慢のお散歩道具を口に銜えて巴に散歩をねだった。
綾瀬はソファを立つと、デスクの上のシガレットケースから煙草を一本とった。背広のポケットからライターを取り出す。
「ライター替えたんですか。年代物ですね?」
ジッポのライターは、古い物によくある鈍い光を放っている。
「私が昔使ってたものだが、元々は二十才の誕生日に親父から譲り受けたものだ」
煙草に火をつけて、綾瀬は感慨深げに手の中でライターを転がした。
巴はまだ十一才だ。大人の懐古趣味や郷愁には縁もなければ、興味もない。傍らで甘えたように鼻を鳴らしているクラディスから、散歩用品を受け取った。
「分かったよ。クラディス、散歩だね」