第四章 Over the Horizon 35
「橙次様、こんな立派なお嬢様に成長されているなど、嬉しい限りにございます」
初音は、愛美を抱き締める力は緩めたものの、腕を離そうとはしなかった。手を放せば、愛美がすぐに逃げてしまうとでも思っているようだ。
愛美は、初音に手を引かれるようにして家に招じ入れられた。橙次もそれに続いて、玄関から入って来る。
愛美は座敷に上がると、勧められた座布団に正座した。卓上を挟んで愛美の正面に橙次がつき、一旦下がって飲み物を運んで来た初音の後ろから中年の男が顔を出した。
「早良と初音も、ここで控えていなさい」
早良と呼ばれた男は、愛美と橙次が乗っていた車を運転してきた人だ。この家の主だったらしい。橙次の座った少し後方に、橘夫妻は並んで座った。
橙次は一旦そこで言葉を切ると、愛美を正面から見据えた。そして、
「話は全て晃から聞いた。どう詫びていいのか分からなければ、償いができるとも思わない。ただ、そなたの人生を狂わせたことを儂は心から申し訳なく思う。そして、真央の忘れ形見のそなたの成長を、儂は嬉しく思う」
土下座する上月橙次に愛美は狼狽し、橘夫妻は驚いたようだった。
「違うんです。私は、夜久野真名じゃないんです」
愛美の言葉に橙次は顔を上げながら「今、何と?」と言った。早良と初音の目も、愛美へと向かう。
愛美は顔を反らしてどこか遠くを見ると、覚悟を決めて橙次を見据えた。
愛美は橙次から目を離さず、静かな口調で自分がついさっき知ったばかりの事実を話し始める。
夜久野一族が生きて死んでいったあの桜の森が見せてくれた十年前の光景と、愛美が取り戻した記憶と、東と言う女性の言葉からの推測で、話している愛美にも十年前の真実がはっきりと見えてきた。
愛美の話が終わっても暫くは誰も口を聞かなかった。最初に口を開いたのは橙次だ。
「十年前、夜久野惨殺の報を聞いた時、真っ先に上月に関わる者の仕業だと思った。ただ儂には、それを確かめる勇気も断罪する勇気もなかった。愚かにも、これで上月が助かると思った。鬼となった同胞を排除し、古くは他家を潰すことで生き延びてきた為と言う、言い訳はすまい。儂が十年前、下手人を上げても滅んだ夜久野一族は戻らないが、そなたの人生は狂わなかった。何と言う残酷なことを、儂はしてしまったのか」
どんなに謝罪の言葉を連ねられても、愛美の家族が、あの平凡な日々が戻ってくる訳ではない。
しかし愛美は、十年前の真実を知った時から、全てを許してしまいたいような気分になっていた。