第四章 Over the Horizon 34
年寄りでも、着物を着ている人は少ない。仕事帰りのサラリーマンやOLが行き交う駅の構内では、二人の男を侍らせた着物の老人の姿は目立って然るべきなのに、誰一人として注意を払う者はいなかった。
京都と言う土地柄のものとも思いにくい。
(あの幻影の中の私のようだ)
上月橙次は愛美に深く頭を下げている。愛美は慌てて言った。
「私、人を待っているんです。それに、これから東京に帰るから。お話を伺う時間はありません」
自分が夜久野真名ではないことは、黙っていた。自分はただの近藤愛美だ。夜久野の末裔であると言うレッテルがなくなった今は、上月家とは何の関係もない。
愛美はソッと、駅の構内の時計に目を走らせた。
もうすぐ六時だ。
「彼は来ない。と言うより、もう帰ってしまわれた」
「どう言うことですか?」
愛美は大きな声を出したが、誰もこっちを見なかった。
時間が止まってしまったような感覚。この上月橙次と言う老人は、自分と同じ別世界の人間だと不意に愛美は感じた。
詳しい話は場所を移してと愛美は促されるまま、橙次が待たせていた車に乗り込んだ。二人も乗るかと思ったが、そのまま残る。車は高級車でも何でもない、灰色の乗用車だ。
それでも愛美には、遅れてやってきた東大寺が、愛美を探して右往左往するような気がしてならなかった。
車の中では、誰もが始終無言だった。
愛美は、東大寺が帰ったとはどう言うことなのかと問い質したい気持ちを抑えて、怯えた小動物のように車の後部シートに蹲っていた。
てっきり上月家に連れて行かれるものと思っていた愛美は、車が普通の家の前で止まった時は、思わず上月橙次の後ろ頭を見つめてしまった。
普通の家と言っても、門構えも立派な日本建築の家だ。庭だけで愛美の生家が建つだろう。しかし、昨夜の上月家の広大な屋敷を見た後では、こじんまりとして見えた。
車から降りた愛美は、途方に暮れて上月橙次を見上げた。橙次は、昔の人にしては背が高かった。
その時。
「まあ・・・こちらが真央様の・・・」
門の木戸を開けて出てきたのは、愛美の母親より少し年上ぐらいに見える女だった。愛美は表札の文字を盗み見た。橘とある。
女はいきなり、愛美をその腕に抱き締めた。ふくよかな胸に顔を引き寄せられる格好になって、愛美は焦ってもがいた。
「初音。真名殿が驚いておられる。大人げない真似はやめないか」




