第四章 Over the Horizon 31
「あなた、もしかして・・・」
女が何か言う前に、愛美は自分から名乗った。近藤愛美だと。
女は顔を俯けた。
愛美はふと、桜の木の幹を見つめた。幹の低い位置に、深く刳れたような跡がある。黒く汚れたその部分は、十年を経ても消えることのない恨みのように見えた。
愛美はそっと樹皮に手を触れた。その瞬間、愛美の脳裏に一つの光景が浮かび上がる。
一面の桜吹雪。
新しい白い着物の、パリッとした肌触り。
麗らかな春の午後。大人達の楽しげなざわめき。
愛美は誰かの姿を探していた。つい今仕方まで側にいたのに、何処に行ってしまったのだろう。愛美は勝手に、一人で桜の林に入っていった。
『遠くに行ってはなりませんよ』
愛美はおばあちゃんに、はいと返事をして、どんどん歩いて行った。人の声が聞こえなくなり、心細くなった頃愛美の名を呼ぶ者があった。
『お願いがあるの。その服、少しだけ着させてちょうだい』
愛美はせっかくおばあちゃんに着せてもらったのにと思ったが、彼女の頼みを断りたくはなかった。それに、彼女が自分の着ている服と交換だと言ったので、白いレースの襟の着いた大人っぽい黒いワンピースが、羨ましくもあったからだ。
彼女に手伝って貰って、愛美は自分の着物を脱いで、それぞれ交換した。
洋服は、まるで愛美に誂えたかのようにぴったりだった。彼女も、細い身体に白い着物がよく似合っている。
愛美は、その服は彼女の為の物だと思った。
不意に遠くから、誰かの悲鳴が聞こえた。不安になる愛美に、彼女は恐がらないでと言った。
ゆっくり百を数えたら、何もかも忘れて、お家に帰れるよ。彼女はそう言って、愛美の側から離れて行った。
(お家に帰りたい。入院中のお母さんに会いたい)
愛美は目を閉じて、一、二と数え始めた。彼女の声が遠くで聞こえた。
『私も夜久野だから、力はなくても夜久野だから、お祖母様と一緒にいくわ。バイバイ、もう一人のマナ』
九十九、百。
目を開けると、見知らぬおばさんが立っていた。
『あなた真名ちゃんじゃなくて、愛美ちゃんね。どう言うことなの。どうして・・・。あなたが身代わりになる筈だったのに、どうして真名ちゃんが・・・』
愛美はきょとんとした顔で、首を傾げた。
『愛美のことを、お父さんもお母さんもマナって呼ぶよ』
沢山の人の声と足音がする。愛美は何故か、急に恐くなった。愛美の目から涙が溢れる。
(お母さん。剛ばっかり可愛がる。でも剛は弱いから仕方ない)