第四章 Over the Horizon 19
「あれで済んだと思ってるの?」
その声に晃は、根でも生えたかのようにその場で棒立ちになった。暗闇を透かすようにして見ると、二つの人影がぼんやりと浮かんで見えた。
「こんな所まで追いかけてきたのか。ご苦労なことだ」
晃は溜め息を吐きながらも覚悟を決めて、その少女に向き直った。
十年前、彼が殺し損ねた夜久野真名は、今は彼を脅かすほどの死神となっている。
死に対する恐怖はない。ただ、やり残したことを放って死ぬのは嫌だった。
子供の声と光の溢れる離れは目の前にあるのに、晃にはとても遠い世界のように見えた。
「夜久野の末裔として、私があなたを始末する」
愛美の右手に赤い光が宿り、それは一本の小刀へと姿を変えた。〈明星〉は完全に少女の意のままになっている。
夜久野真名の封じられていた力は、今は解放されてしまっている。
自分は大変な化け物を野に放ってしまったと後悔したところで、始まらなかった。
突然、けたたましい小犬の鳴き声が響き渡り、障子に何かがぶつかるような音がした。
「こら、石蕗丸。やめろよっ」
愛美が驚いて、思わず集中を解くと〈明星〉は消えてしまった。
障子が細く開いたかと思うと、子犬が這いずるように出てきて縁側に四肢を踏ん張って立つと、夜の闇に向かってうるさく鳴き立てた。
「誰かいるの?」
障子を開いて出てきた兄の紫について、咲也が恐々と顔を覗かせる。愛美の前で、那鬼が緊張するのが分かった。
子犬を宥めながら闇を検分していた紫は、突然素っ頓狂な声を上げた。
「晃おじちゃんでしょ」
紫は地面に裸足で降りると、一目散に晃の足に抱きついた。
「祖父ちゃんから晃おじちゃんがくるって聞いて、ずっと楽しみにしてたんだよ。いつもみたいに遊んでくれる?」
安心したのか咲也は縁側を降りると、彼は感心にも子供用の下駄をつっかけて、紫と同じように晃に飛びついた。
抱っこと甘える咲也を、晃は仕方なさそうに抱き上げる。
子犬は吠えるのをやめて、きょとんとした顔で縁側に座り込んだ。
晃は、自分がそう言えば上月の当主に話があるので伺いたいと、会社から電話をしておいたことを思い出した。勿論〈明星〉を手渡す為だった。
その〈明星〉は、闇の中に佇んでいる少女に奪い返されてしまったが。
自分が、少しばかりの期待感と優越感を持って電話をしたことなど、ずっと昔の出来事だったような気分になる。




