第四章 Over the Horizon 11
「黙りなさい。そしてさっさと消えて」
俯き加減の那鬼の頬のすぐ横に、〈明星〉が突き立っている。愛美は普段の顔に戻っていた。
「言われずとも」
吹きつけた強風に愛美は目を瞑って、一歩後退した。バランスを崩して座り込んだ愛美の前に、那鬼の姿はなかった。
愛美は暫くぼんやりと座っていたい気分だったが、東大寺が愛美を呼ぶ声に重い腰を上げた。東大寺は、那鬼の呪縛によってまだ動けないでいた。
愛美は東大寺に向かって歩きながら、「散れ」と言って、軽く右手を振った。赤い房飾りのついた針が、弾けて散る。
体勢を崩した東大寺を支えようと手を差し出した愛美ごと、二人は地面に倒れた。
「めっちゃ格好悪すぎやで、俺。愛美ちゃんの前では、頼れる男でいたいねんけどな」
東大寺は、溜め息を吐いて苦笑いを洩らした。
「俺は一般人やから、何が起こったんか殆ど分からんかったわ。俺も超能力者やなく、陰陽師やったらよかったのに」
「そうしたら、那鬼を呼び出せなかったわ。もしあの時東大寺さんが声を掛けてくれなかったら、私あの人を殺してました」
「殺したかったんやろ。別に構わんかったのに」
愛美が違うのだと言うように首を振り、もどかしげに語り始めた。
「殺したかったし、殺せばよかったと思います」
「それやったら・・・」
愛美が慌てて首を振る。
「あの時の私は私でありながら、私じゃなかったんです。憎しみに支配されて、自分がコントロールできなかった。私の中には、魔物がいるんです。今まで眠っていたそれが、目覚めてしまったんです。あの時那鬼を殺してしまえば、きっと私は魔物に支配されて自分を見失ってしまった筈です。ちゃんと自分の意思で、今度は殺します」
愛美はそう言いながら、自分の右手に視線を落とした。右手に意識を集中させると、炎のような赤い気が手の平を包んだ。
東大寺に再び名前を呼ばれ愛美が集中を解くと、右手から発されていた光も消えた。
「あのバンダナって愛美ちゃんの?」
山犬神の倒れていたところに、その姿はもうなかった。
いつの間に消えたのかも分からなければ、汚れた黄色い二枚のバンダナがいつ現れたのかも分からない。
愛美は東大寺を残して立ち上がると、風に攫われて飛んで行きそうなバンダナを拾い上げた。
「持っててくれたんだ」
右近が照れてわざとそっぽを向く様子や、左近がそれをからかう声が愛美には手に取るように感じられた。