第四章 Over the Horizon 10
夜久野真名も、陰陽師の端くれだ。少しぐらい呪法が使えたところで自分の敵ではない。夜久野家の落ちこぼれの夜久野真名など、恐るるに足りず。
那鬼は日本刀を構え直した。
「相手が無抵抗ではつまらん。少しの余興は欲しいぐらいだ」
那鬼は愛美に駆け寄り一刀の許に切り捨てようとしたが、切っ先が届く寸前で愛美の姿が那鬼の視界から消えた。
一瞬の狼狽の空白が、那鬼の命とりだった。
腹部に拳を入れられたような衝撃を感じて、那鬼の意識は僅かに飛んだらしい。
木の幹を背にして、口唇から溢れた血に両手を染めている自分に愕然とした。
これでは、この前と反対ではないか。それに夜久野真名は、口中で呪文も唱えなければ印も結ばなかった。当然呪具の助けもない筈だ。
「〈明星〉を、返してもらう」
自分の前に落ちていた影は、夜久野真名のものだった。なぜか身体が動かなかった。少女が右手を那鬼の胸に突きつけた。
「やめろ。何を・・・」
「何処」
愛美は動揺する那鬼に目もくれず、右手を那鬼の身体にめり込ませた。那鬼が、息を吸い込んだままで息を止める。
ひいっと言う短い音が、喉から洩れた。恐怖に顔を歪ませ、やめてくれと懇願する那鬼を尻目に、愛美は更に手を深く入れた。
「此処。其処。来い」
呪文でも何でもなく、愛美はブツブツ呟いている。
血と骨と筋肉の、生々しい感触。那鬼の呼吸が浅くなる。
愛美は指に触れた細長い物を指先で捉えしっかり掴むと、力一杯引き抜いた。繊維が引きちぎられる音と手応え。
愛美の手の中には、血と肉片のこびりついた〈明星〉が握られている。
那鬼は身体を震わせて呻きながら胸を探って、ハッと顔を起こした。傷もなければ血も出ていない。
愛美の手の中の〈明星〉も、血糊の跡さえなかった。愛美は那鬼を見ていたが、その目は茫洋として捉えどころがない。愛美は〈明星〉の、鞘を抜いた。
那鬼は自分の敗北を認めたが、最後の足掻きは忘れなかった。勿論はったりだ。
「俺を殺すのか。それならあの少年を道連れにしてやる。彼が死んでも構わないなら、〈明星〉を使うといい」
「殺ったらええ。俺のことは頼むから気にせんといてくれ」
愛美の無表情な瞳が、東大寺の言葉に揺れた。那鬼は光明が見えるような気がして、あともう一押しだと思った。
「仲間を裏切るのは夜久野の血か?」
愛美は拳を震わせて〈明星〉の束を握り締めていたが、那鬼の言葉に触発されたように腕を振り下ろした。
鈍い音がする。