第四章 Over the Horizon 8
――巻キ込マレヌヨウ、ソノ者ヲ守ッテヤレ
――自分ヲ信ジルノジャ、誰モ助ケテハクレヌゾ
姿は一つだが、声はそれぞれ違う右近と左近のものだ。
(自分を信じる? 私にとって大切なもの? 家族も友達も思い出も、大切なものはみんな失ってしまった)
愛美にとっての家族は、この場合近藤愛美としての家族だ。夜久野真名として生きた記憶は、愛美にはない。ほんの断片しか・・・。
那鬼が右手を軽く振ると、一振りの太刀が現れた。
日本刀を構える那鬼の顔には、少しばかり緊張があった。
対峙して睨み合うこと数秒、先に仕掛けたのは那鬼の方だった。刀の刃と、山犬神の牙が火花を散らしてぶつかり合う。
離れて立っているのに、激しく震えた空気に露出した膚がヒリヒリと痛む。そうこうしている内に、手の甲に血がにじみ始めた。
(自分を信じる)
「お願い、守って」
愛美は、思わず両手を組んで祈りを捧げるような格好をした。愛美は閉じていた目をそっと開いた。
愛美と東大寺を包むように、半円の防御結界が張られている。
(大丈夫。私にもできる)
気を抜くと、薄れそうになる結界を愛美は心を落ち着けて維持した。
那鬼の左腕を、山犬神の爪が凉った。血が飛沫になって飛び、那鬼の日本刀が山犬神の片耳を削いだ。
戦況は、五分五分と言ったところだ。
彼らの戦いが熾烈さを極める程、辺りの空気が歪み、ビリビリと音を立てる。
愛美の結界に、亀裂が生じ始めていた。愛美の全身から汗が吹き出す。辺りの空気は冬の到来を告げる北風の所為だけでなく、二、三度気温が下がったような感じがするにも関わらずだ。
愛美は歯を食い縛って、膝から力が抜けそうなのを必死で堪えた。
「愛美ちゃん。無理したらあかん。俺まで守ってる所為で余計な力を浪費しとるんや。愛美ちゃん一人やったら、この場を切り抜けられる。俺のことなんか気にすな」
愛美は東大寺を振り返って、小さな子供のように首を横に振った。泣きそうになっている愛美よりも、東大寺はもっと辛そうだった。
(私にとって大切なのは、過去か未来か。過去は大事だけど、いつまでもしがみついてることはできない。未来がどうなるかなんて、誰にも分からない。私にとって大事なのは・・・紫苑の笑顔、長門の仏頂面、東大寺の明るい声、弟のような巴・・・そして綾瀬)
そこまで考えた時、愛美が張った防御結界はシャボン玉のように弾けた。
その途端、劣化し、氷のように冷えきった空気が膚を裂いた。