第四章 Over the Horizon 7
愛美は、服の上から右の胸ポケットを握り締めた。固い感触が手の平に馴染む。最後の切り札だ。
「自信過剰なのね。でも利用されていたと知ったら、あなたを殺したいほど憎んだかも知れないわ」
大和のように・・・。
愛美はその言葉を飲み込んだ。殺したいと思っているのは自分も同じだ。
「騙されていることは知っていた筈だ。それでも俺を憎まず、代わりに憐れんでやると言いやがった。邪魔な女だったから、お前が殺してくれて感謝しているほどだ」
憎々しげに吐き出すと、那鬼は血の滲んだ蟀谷を指で押さえた。
「十年前、果たせなかった悲願が成就できそうだな」
那鬼は愛美に向けて右手を突き出した。那鬼の身体から白い光が立ち昇って見える。
綾瀬に聞いて、それが術者の持つ呪力の発現だと愛美は知った。愛美は、ポケットの中の木切れを握り締めた。
馴れてくると、あって当然のものとして認識できなくなるらしいが、この世界に足を突っ込んだばかりの愛美には視える。
(殺される)
激しい衝撃音が聞こえ、愛美は恐る恐る目を開けた。
(那鬼の衝撃波を跳ね返した?)
愛美は慌ててポケットに手を入れて確かめると、泣きそうな表情になった。
小さな木の人形は黒く燃え尽きている。最後の切り札が・・・。
「式神も木端神も、兄が与えたものじゃないか。他人に頼らず、自分の力で闘ったらどうだ。〈明星〉の補助がなければ、結界一つ張れないか」
愛美は脱力して、その場に座り込んだ。
――其方ニハ力ガアル。ソレハマダ目覚メテイナイダケダ。心ヲ無ニシロ。全テヲ解キ放ツノダ
――時間稼ギナラ、我等ガスル。其方ニトッテ、大切ナモノハ何ダ。過去カ、ソレトモ未来カ
(私にとって大事なもの・・・?)
「山を離れて霊力も落ちているだろうに。今のお前らでは時間稼ぎにもならんぞ」
木々が騒いでいる。空気が何かの予感に震えている。彼が現れる。
空気が密度を濃くしたようだった。宙空に、大きな獣の姿が現れる。
右近、左近・・・。
――コノ前ハ不覚ヲトッタガ、今度ハソウハイカヌゾ
――コレガ我ガ真実ノ姿ヨ
二本の尾と二対の目、口の端から白い鮫のような糸切り歯が覗いていた。黒目だけの虹彩のない瞳が、暗黒を映して黒々と濡れて光っている。
「真実だろうが仮の姿だろうが、たかが物の怪風情が陰陽師に盾つくことの愚かさを知るがいい」