第三章 Fallen Angel 32
「馬鹿な人達ですね。終わってしまったことで、一々悩んだりするなんて。社長もその内の一人だ」
投げ捨てるように言って部屋を出て行った巴に、綾瀬は小さく肩を竦めた。
「相変わらず、可愛げのない子供だな。IQ200の天才とちやほやされて、親にまで腫れ物に触るように扱われれば、それも仕方のないことか? 甘え方も知らないんだ。気長に母親代わりをしてやってくれ、クラディス」
綾瀬の言葉に答えるかのように、クラディスは一声吠えた。
*
愛美は、車の助手席から秘書の西川の顔を伺った。高い鼻粱と、笑っているように端の上がったグロスの光る赤い口唇が綺麗だ。
那鬼・・・弟に殺されかけた綾瀬を介抱した少女と言うのは、西川ではないか。
愛美のそれは確信に近かった。綾瀬がどう思っているかは知らないが、西川は間違いなく綾瀬が好きなのだろう。西川は、綾瀬の秘書としてだけではなく、家政婦としての働きもしているらしい。
一緒に暮らしてるんですか?と言う愛美の問いに西川は、まさかと笑った。下宿中の甥と二人暮らしだと言う。巴の頼みに秘書の西川が用意した服は、甥の物だったらしい。
洗濯して返すと言った愛美を構わないと制し、夕食の用意までしてから帰って行った。
愛美は405号室の玄関に入った瞬間、右近と左近の気配を感じていた。気配は、愛美の使っている部屋から流れてくる。
早く会いたいと心が急かされたが、どうせなら西川の帰った後の方がいいだろうと、すぐには部屋に入らなかった。
西川を玄関まで送った時、東大寺が凹ませた壁がまだ修復されていないことに気付いて、愛美は思わず笑ってしまった。明日か明後日には業者が入ると、西川は教えてくれて帰って行った。
愛美は早速、自分の部屋のドアを開けた。愛美のベッドの上で、二匹は仲良さそうに寄り添い合っている。
ドアの蝶番の軋む微かな音以前から、来訪者を感知していたらしいことは、後ろに向けている耳がヒクヒク動いていることからも分かる。しかし二匹は狸寝入りを決め込んでか、顔を上げない。
愛美はわざと足音を消してベッドに近付くと、二匹の山犬神の上におおいかぶさった。
――一度ナラズ二度マデモ。モソット遠慮セヌカ
――待チクタビレタワイ
愛美は枯草のような二匹の毛に顔を埋めながら、ふと右近の鼻面を掴まえた。




