第三章 Fallen Angel 30
「変な誤解しないでよ。何で私がこの人に・・・」
綾瀬の方が、何とも意に介していないふうなのは癪だ。クラディスの冷めた目と、無表情な巴。巴は、床に置いてあったランドセルを取り上げると腕を通した。
「お邪魔様。僕、そろそろ帰ります」
綾瀬が突然笑い出し、愛美と巴は驚いて男を見た。彼はゆっくり立ち上がると、ズボンの裾を払ってから、優雅な足取りで安楽椅子に腰掛けた。
「お前でも動揺するんだな」
その言葉は愛美ではなく、巴に言われたものだった。その証拠に巴が顔を強張らせた。
「冗談はこれぐらいにして、仕事の話にしよう」
綾瀬はいつもの余裕を見せて、骨ばってごつごつした長い指を組むと、愛美と巴にソファにつくように促した。
(またしても、からかわれた)
愛美がふるふると拳を握り締めていると、巴が一言。
「大人は不潔だ」
誰に対して言ったのか分からないが、吐き出すようにそう言って、鞄を下ろすとソファに席を占めた。巴の隣に座るのはためらわれて、真向かいに愛美は腰掛ける。
「これからどうする?」
明らかに綾瀬は愛美に聞いている。愛美は考えるように間を置いて、その言葉を噛み締めるように一語一語発音した。
「やっぱり〈明星〉を、取り戻したい。あれがあると私、何か思い出せそうな気がするから」
その答えは、綾瀬もあらかじめ推測していたようだ。淀みなく次の言葉を言った。
「ならば、那鬼を追うことだ。京都の上月家に〈明星〉が渡る前に、力付くで取り返すしか方法はない。君一人では到底無理だから、誰かをつける必要がある」
到底無理と言う台詞は癇に障るが、本当のことなので何も言えない。巴が、いつの間にか側に来ていたクラディスの頭を撫でながら言った。
「長門さんか、東大寺さんのどちらかでしょう?」
東大寺の名前で、愛美は思い出した。大和を殴りつけて馬鹿野郎と怒鳴った東大寺は、涙ながらに訴えていた。
死んだら二度と会えない。仇討ちなんか望んじゃいない。
東大寺の心の奥深くを、覗き見たような気分だった。
「あの東大寺さんって、過去に何かあったんですか? もう亡くなった大和さんに、瑞穂さんが死んだら二度と会えないんだぞって、泣きながら説得してたから。男子が泣くところなんて滅多に見ないから、驚いちゃって」
愛美の言葉に巴は、東大寺に過去と嘲るように呟いて、無心にクラディスの背中を撫で始めた。