第三章 Fallen Angel 29
綾瀬はそう呟くと、席を立ち愛美の側に膝を折ると、愛美の顎を掴んだ。
――何をするの・・・?
綾瀬の顔色は、サングラスの所為で窺えない。
押しつけられた唇の柔らかさに、愛美は不快感も顕に綾瀬を突き飛ばそうとした。顎を掴む手に、力が加わる。唇を通して、何かが流れ込んでくるような感じがした。
愛美は嫌悪したが、それは愛美の隅々まで浸透していくようだった。唇が離れても、綾瀬は愛美の顎を掴んだままだった。
「何するのよ」
愛美は必死で綾瀬を睨んでいたが、語尾が震えていた。
「まだ気分は悪いか?」
綾瀬の落ち着いた様子に、愛美は一瞬怒りを覚えたが、そう言われれば先程までの気分の悪さは、掻き消すようになくなっている。相変わらず綾瀬は愛美に顔を寄せたまま、言った。
「君が那鬼に受けた傷は致命傷ではなかったものの、重傷に変わりなかった。それが傷一つ見当たらないのは、おかしいと思わなかったのか? 力を使って君の傷を消した紫苑は、君の代わりに今寝込んでいる。君だってまだ、傷の回復に身体がついていってないんだ。大人しく病院で、寝ていれば良かったものを」
全身を貫いた時の痛みを思い出すと、身体が震えるほどだ。紫苑のお陰で、今こうして愛美は綾瀬の元まで来ることができたのだ。
紫苑は一体、何者なのだろう。医者ではない。どんな名医だって、傷を消してしまうことなんて不可能だ。
夢うつつに聞いた綾瀬の台詞の、魔導師と言う単語が思い起こされた。紫苑は魔法使いか何かなのだろうか。
「済みません」
しおらしく素直に謝った愛美に、綾瀬は微笑を見せた。
「あんな色気のないのが、ファーストキスじゃ可愛そうだからな。大人の味を教えてやる」
愛美は思わず硬直する。あながち冗談とも思えない。綾瀬が顎を掴んでいた手が、愛美の腰に回された。
頭に血が上り、顔が熱くなる。心臓が早鐘を打っている。綾瀬は、愛美の頬に手を当てたまま心持ち顔を傾けた。
唇が重なりそうになった瞬間。
扉が開いて入ってきたのは、巴和馬だった。横には、首輪と紐を口に銜えたクラディスもいた。
「クラディスの留守を狙って手を出すとは、いい度胸ですね」
巴は驚いた様子も照れることもなく、眼鏡を押し上げてそう言ってのけた。愛美は綾瀬を突き飛ばさんばかりの勢いで立ち上がると、慌ててクラディスと巴の両方に向かって言い訳をした。
一瞬立ち眩みをするかと思ったが、綾瀬のお陰で――キスの所為だとは思いたくないが――身体の調子は元に戻っていた。




