プロローグ*表紙絵付き
日常が非日常にとってかわられた時 人はどれ程のことが出来るのだろう
――あの日、私の平凡な日常は 音を立てて崩れ落ちた・・・
小さな執務室の中。
一人の男が、スチール製の事務机を前にして、紙の束に目を通していた。
壁際に棚と部屋の中央に机が置かれているだけで、他には何の調度品もない。ブラインドの下りた室内には、空調設備の立てる、鈍い微かな音だけが響いている。
男は、細面のやや険のある顔つきで、年は三十前後と言ったところに見えた。
不意に扉をノックする音がし、正面のドアは、男の返答を待たないで開かれる。まるで影のように滑り込んで来た者は、足音一つ立てず机の側に寄ると、片膝を着いて頭を垂れた。それに対して、男は顔も上げずに、ただ一言で応じる。
「仕事場には来るなと言った筈だ」
男の声は、言葉に刺があると言うより、あまりに硬質で冷たく、聞く者をヒヤリとさせるような、そんな声音であった。だが傍らに跪く者は、それを意に介さず、
「申し訳ありませぬ、那鬼様。『明星』の行方、掴めましてございます」
と、時代がかった台詞を吐いた。
那鬼と言う名で呼ばれた男は、相変わらず書類の文字を追いながら、それでも一応気のない返事をした。
「やはり、夜久野の残党が握っていたのか?」
「いえ、夜久野は夜久野でも、当主の孫が生きていたようで・・・」
その言葉に那鬼は、明瞭らかに動転した。
「そんな筈があるか!」
彼は、思わず強い調子で呟いていた。傍に控えていた青年が、びくりとして顔を上げる。まだ幾分あどけなさを残した青年は、初めて見る那鬼の動揺した様子に、驚きを隠せないようだ。困惑している青年をよそに、那鬼は何処か遠くを見る目付きになると、小さく一人言ちた。
「死んだと思っていたが・・・。そうか、生きていたのか」
那鬼はそう言って、乾いた笑い声を上げたが、その目は笑ってなどいなかった。いや、憎しみが篭もっていると言った方がいい。少しの間沈黙が続き、それから那鬼が、先程の狼狽ぶりを忘れたかのような、底冷えする声でこう言った。
「夜久野の、穢れた血を受け継ぐ者。そんな者を匿っていた馬鹿者どもには、制裁を与えろ。配量はお前に任せる」
青年にそう告げて、那鬼はまた書類に目を落とした。
「当主の孫の始末、如何致しましょう?」
「今までのうのうと暮らしてきた落とし前、きっちりつけさせろ。だが、殺すなよ」
青年はそれを潮に深く黙礼すると、身を翻して来た時と同じように音を立てずに、部屋から消えた。
男はそれを見送った後、虚空に向けて一人静かに呟いた。
「夜久野・・・。十年前の決着は、必ずつけてやる」