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第一話<シリル=オースティン>

 雲ひとつない空の下、どこまでも続く大海原を眺めながら、シリル=オースティンは、桟橋に腰をかけていた。少しの間、景色を満喫すると、自分のバッグから、まるで百科事典のように分厚く大きな本を取り出し、しおりを挟んでいたところを開いた。強めの潮風にページをめくられながらも、彼は眼を皿のようにして読み、所々ペンで傍線を入れる。夏の日差しが、彼の白い肌に照りつける。彼の肌は、普段から太陽の下で生活する『タワー』の下層市民としては大層白い。また顔も実年齢より幼いが、キリリとした細い眉毛と鋭い眼光は、彼の負けん気の強さを表していた。


「おーい、シリル。もう昼休みが終わったぞ。早く持場に戻れ!」


 ガラガラの野太い声が、シリルの勤める工房『ボンボール』から聞こえた。振り返ると、工房の裏口から、工房長のボン=ボールーがこちらに向かって手を振っている。これ以上焼けようがないほど黒い肌と、顔に深く刻まれた皺、強健な肉体のおかげで、まるでそびえたつ古樹のような印象を持つ男だ。


「あいよー!」


 本を小脇に抱え、シリルは立ち上がり、工房に向かって走り出した。一歩走るたびに、古い桟橋の板が、ガタガタと音を鳴らした。急ぎ過ぎたせいで、彼は手抜き工事で出っ張ってしまっていた板に足を引っかけ、頭から転んでしまった。

 投げ出された本が、通りかかった男性の足元に滑って行った。彼は表紙を見ると、懐かしそうにその本を拾い上げた。

 服についた汚れを払ったシリルが、男性の下に駆け寄る。


「拾ってくださって、ありがとうございます」


 男性は肌こそ黒いが、とても下層市民とは思えないほど綺麗な身なりをしている。


「はい、どうぞ。ところで、『全層文字訳辞典』を持っているということは、君は『翻訳士』を目指しているのかい?」


「ええ、そうですけど」


「立派なことだな。志望理由は何だね? まさか王族とペンフレンドになりたいわけでもあるまい」


 このタワーでは、大昔から王族・上層市民・下層市民とで使われる文字がそれぞれ違う。王族らが決めた法律や政策を、そのままでは下層市民らは理解できないのだ。そこで、『翻訳士』という職業がある。全ての文字を理解し、文書を翻訳することによって、上から下へ、下から上へとの情報伝達を担う仕事だ。

 

「まさか、そんなことはありませんよ。小さいころからの夢なんです」


「そうか。頑張ってくれたまえ。応援してるよ」


 そう言い残すと、男性は停泊していた海上バスに乗り込み、去っていた。シリルが、彼の姿を目で追っていると、後ろから軽いげんこつを喰らった。


「ほら、ぼけっとしてねぇで、とっとと仕事に戻りやがれ」


 ボンだった。


「……へーい」


 シリルは、「殴ることはないだろう」と心の中で愚痴りながら、ボンに続き、工房の中へと戻っていった。



 工房の中は、常に蒸し暑い。エンジンを入れたばかりの研磨機の蒸気口から、白い蒸気が噴き出した。換気のために四角い窓を開けると、工房内よりかはいくらか涼しい潮風が、流れ込んできた。

 シリルはバッグを小さいテーブルの上へ置くと、作業机に座った。

 ダランダムドと呼ばれる鉱石を真球に削るという、単純ではあるが、高い技術力と集中力を用いる仕事をしている。まず、ごつごつしたダランダムドを取り出し、研磨機にセットして荒削りをする。そして、最後に手作業で仕上げをする。これを一日5個ほど繰り返す。なんの面白みもないが、だからと言って気を抜くこともできない退屈な仕事だ。

 一日のノルマを終えた頃には、夕日の橙が海辺を染めていた。ボンが終業を告げると、戸締りをして、二人は工房を出た。


 ボンが夕飯をおごるとのことで、二人は下層商店街の、『ウミネコ屋』と言う定食屋に入った。


「いらっしゃーい、お二人さん」と、声をかけたのは、この店の店主のバリー=メイナードだ。夕飯どきなだけあって、店内はかなり混んでいた。バリーが手早くカウンター席を拭き、シリル達はそこに座った。ボンが少し汚れたメニューを取り出す。なお、この店には、店名にちなんで『ウミネコ定食』があるが、実際にウミネコの肉を使っているわけではない。というより、海藻炒めがメインで、肉は申し訳程度にあるだけだ。たまに無い時もある。


「シリル、お前は何を食べる?」


「どうすっかな―、じゃあ……名前詐欺ウミネコ定食で」


「俺は……ナツトルベの塩漬けと、飯大盛りにしよう。おーい、エリーちゃん!」


 エリーと呼ばれた少女が、水の入ったコップとメモ帳を持ってやってきた。彼女は、店主の娘であり、シリルと幼馴染だ。


「はいはーい。ご注文は?」


「俺は、ウミネコ定食。ボンがナツトルベの塩漬けと飯大盛り」


「了解了解。ボンさん、海ビールは飲む?」


「じゃあ、もらうよ」


「お父さん! ウミネコ定食一つ、ナツトルベ一つ、大盛り一つ、海ビール一つ!」


 バリーが返事代わりに、フライパンをお玉で叩いた。ちなみに、出てきたウミネコ定食に、肉は入ってなかった。



 明日、上層のダランダムド加工所との取引があるらしいので、ボンは早めに帰って行った。シリルも、帰ろうかどうか悩んでいたが、いつも以上に客の数が多く、『ウミネコ屋』を手伝うことにした。ウェイターの仕事はやったことはないが、閉店時間までつつがなく送れた。店の後片づけが終わった時、バリーが最近薄くなってきた頭をさすりながら話しかけてきた。


「お疲れさま、シリル君。お礼に、海ビールでも飲むかい」


「ああ、いや、俺未成年なんで」


「なに、もう19だろ。大人と大して変わらんよ。ほら一杯」


 と言って、店の冷蔵庫からビールを取り出そうした手をエリーに掴まれた。


「お父さん。ダメなものは駄目よ」


 ゆっくりと強めの口調で言われ、バリーはシュンとなった。


「シリル。今日はありがとう」

 

 向き直って、エリーはお礼を言った。


「それにしても、ボンさんの所でそのまま就職するって聞いた時、驚いたわ。下層市民学校学年一位で勉強虫のシリルのことだから、てっきり下層総督省の第一試験でもうけると思ったのに」


「勉強虫って……お前だって2位だったろ。というか、第一試験を受けようとしてるのは、自分じゃねぇか」


 シリルは、彼女に翻訳士になろうとしていることは隠している。翻訳士試験は、このタワーの資格の中でも最難関。5年か6年に一人、受かるか否かだ。同じ試験に何度も落ちたりするところを、シリルは彼女にだけは見せたくない。それと、『ボンボール』に勤めているのは、もう一つの理由がある。


「というより、俺自身、ボンには恩があるしな。孤児の俺をここまで育ててくれたのも、本当に感謝してる」


 シリルが物心ついた時には、既に両親はいなかった。彼はボンに育てられ、口にこそ出さないが、ボンこそ自分の父だと思っている。だから彼は、孤児ではなく、父と子の二人暮らしだったという方が正しいだろう。そしてまた、エリーも、父と娘の二人暮らしなのだ。母親は、幼いエリーを残して失踪したらしい。彼は、自分と同じ片親のエリーがいたおかげで、自分の出生から来る孤独を和らげることができた。彼が多感な思春期を歪まずに過ごせたのは、ボンとメイナード親子の影響に違いない。


「それじゃあ、二人とも、さよなら」


「じゃーね、シリル」


「明日はウミネコ定食に肉を入れる日だから、ぜひ食べに来てね」


(あれって、規則性あったのか!?)


 今日、一番驚いた事実だった。



 薄暗い電灯を頼りに、安っぽい金属性の階段を上り、中心に向かってしばらく歩くと、下層市民居住区に着く。シリルはそこの家で一人暮らしをしている。居住区は、大陸に住む人と同じように作っているらしい。土があり、草木が生えて、放射状にコンクリートの道路が走り、一定間隔をおいて簡素な家が並べられている。もっとも、大陸なんて下層市民どころか、王族ですら見たことがないのだから、比べようがない。


 今日は、いつもの労働のほかに、慣れない仕事までやったせいで、少し疲れが出て、気が緩んでいた。家のカギを出そうとカバンを地面に置いたとき、後ろから走ってきた影に倒され、バッグを持って行かれた。ひったくりだ。

 突然のことに面食らったが、立ち上がり、ひったくり犯を追う。しかし、勉強だけが取り柄の男が足が速いわけもなく、ひったくり犯との距離はどんどん離れていく。

 居住区に「泥棒!」という叫び声が響く。どんどんどんどん犯人の背中が小さくなる。しかし、ここで諦めるような男じゃない。華奢な体に無理をさせ、気合いで詰めていく。もう、何分走ったかも分からなくなった頃、ついに犯人を袋小路に追い詰めた。


「さあ、バッグを、返して、もらおうか……!」息を切らしながら、シリルは言う。


 その時だった。ひったくりは、ポケットからナイフを取り出し、構えた。シリルは怯んだ。その隙を突かれ、犯人はシリルの脇をすり抜けて、逃げた。しまった、と思いながら、追おうとするも、足が持つれて転んでしまった。その瞬間、ふくらはぎを激痛が襲う。足がったのだ。それでも、やつの顔ぐらいは覚えてやる、と目を開けた時、ひったくり犯が通りすがりの人に突き飛ばされ、抑えつけられた。


 痛みを我慢し、足を引き摺りながら、そこに行くと、


「おや、偶然ってあるものだな。またあったね」


 昼に出会った、あの男がいた。 


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