透明不可侵
私の恋は気付かないままに訪れて、そして触れることもなく消えていった。
高校一年生の春。私は友人の山口佳代に誘われて、美術部に入った。
高校の部活は必修ではないから入る必要はないけれど、中学の頃に在籍していたこともあって、なんとなく、入ってしまったのだ。
「私、部長の二宮理央。よろしくね」
中川朋香、山口佳代と書かれた二枚の紙を見て、二宮先輩はにっこり笑った。
二宮先輩の第一印象は、美人、だ。艶やかな黒い髪。目鼻立ちのすっきりした顔には、赤いふちの眼鏡。制服は着崩すことなく、スカートの長さも規定どおり。きちんと正制服を着こんでいるのに、決まっている。背の高さも相まって、スレンダーな美人、という印象をもった。
美術部は地味な人間の集まり、という印象を中学で刷り込まれていた私は、恥ずかしくなった。
私は典型的な美術部員だ。とても地味な人間だ。不細工とまではいかないけれど、美人ともかわいいとも言えない顔立ち。手入れをするのが面倒だからと伸ばしたままの髪は、ひとつに束ねて髪留めをつけただけ。少し大きめの制服は着崩す勇気もなく、私を不恰好に包んでいる。
友人の山口に至っては、はちきれそうなお腹を、無理矢理ベストで隠している。普段は山口と一緒にいることを恥ずかしいとも思わなかったが、二宮先輩を前にして、私はいたたまれなくなった。
「よろしくお願いします」
隣で挨拶を返す山口につられて、慌ててお辞儀をした。
美術部に入った私に最初に課された使命は、一枚、絵を見せることだった。新しく描いてもいいし、以前描いたものでもいい。そう言われて、私は戸惑った。中学の頃に美術部に所属していたが、私は今まで三枚しか絵を描いていない。絵を描くことより、絵を見ることのほうが好きだったからだ。美術館巡りをしては、レポートを提出していた。だから、先輩に見せられるほどの絵は持っていない。
「作風をみてみたいだけだから。そんなに緊張しないでいいよ」
返事に困っていた私に、先輩はやさしく言ってくれた。
新しく描くには、テーマから決めなければいけない。遅筆な私は、すぐに提出できない。そう考えた私は、中学の頃に描いた絵を見せることに決めた。
自転車のハンドルにかけた袋が、ガサガサと音を立てる。家にある一番大きな白いビニール袋に絵を入れて、私は学校の坂道を上る。時々、風に煽られては車輪にぶつかる。ガコン、と間抜けな音を立てて、カンバスが揺れる。
こんな絵を見せて、失望されないだろうか。私は不安に思う。
先日見せてもらった先輩の静物画は、素晴らしかった。確かな技術に裏打ちされた正確な静物画。あれを見てしまったら、自分の絵が幼稚に見えて仕方ない。やっぱり、新しく描くべきだっただろうか。私は後悔をしながら、長い坂道を上った。
「かわいい絵だね」
髪をかき上げながら、二宮先輩は言った。褒められているのか駄目だと言われているのか、それだけでは分からない。
私の絵は、特別展で見た、アルフレッド・ウィリアム・フィンチの点描画の技法を真似た、でも、とても幼稚な絵だ。
空に卵の殻が浮いている。その周りを、ピンク色の雲が囲んでいる。卵の中には、水が湛えられていて、浮かんだ月の影を水面に映し出している。特別、テーマはないけれど、心象画というしかない構図の絵。
本当はフィンチのような風景画を描きたかったけれど、デッサンがまともにできない私には、真似できなかった。
「憧れているのは、フィンチなんですが……その、まだまともな風景画が描けなくて」
私は俯いて呟いた。
「あ、フィンチ好きなんだ? うん、分かるよ。とてもやさしそうな絵だもの」
先輩の声に顔をあげると、にっこり笑みを見せてくれた。いつもはきつく見える目元が、やわらかな形を作る。
「こういう絵が描けるのっていいね。中川は、才能があると思うよ。好きなだけ、描いていったらいいと思う」
先輩の言葉に、脈拍があがった気がした。今まで幼稚な絵だとしか言われたことがない。初めて褒められた。心臓の音が、うるさい。
「絵の具はあまりないから、足りなかったら自分で買ってもらわないと駄目だけど。カンバスだけはたくさんあるから。好きなだけ使っていいよ」
先輩が指示した先には、埃を被ったカンバスが並んでいる。
「あれ、課題授業の生徒が置いていったカンバスなの。誰も取りにこないから、勝手に剥がして使ってるんだ」
うちは弱小美術部だからね。先輩はそう付け加えた。
確かに。初日には他の三年生の先輩方の姿も見えたけれど、それから一度も姿を見せていない。四人いる二年生の先輩たちに至っては、顔は出しても漫画ばかり読んで、落書きをしている。
まともに絵を描いているのは、二宮先輩だけなのかもしれない。私は思った。
「あと、できたら六月の文化祭までに、一枚絵を描いてくれたら嬉しいな」
描けるだろうか。私は先輩の言葉に緊張した。
「そんなに気負わなくていいから。好きなものを描いたらいいよ。私でよければ、指導するし」
先輩の指導が受けられる。私はそのことに、心が躍った。先輩に褒められたい。私は精一杯の絵を描こう。そう決めた。
絵のテーマを決めるのは、難しかった。またテーマのない心象画を描くわけにはいかない。やさしそうな絵。才能がある。そう言ってくれた先輩の言葉を思い出して、私は風景画にチャレンジすることに決めた。
放課後の学校を、スケッチブックを抱えて歩く。手で切り取っては、違うと手を降ろす。描きたい場所が見つからない。家族旅行で行った先の風景でも描いたほうがいいだろうか。そう思って歩いていたら、いい場所に出逢った。
校門を出たところから広がる坂道。空も樹も、青々として輝いている。フィンチの絵からは離れるけれど、未来を感じさせる風景。悪くないんじゃないだろうか。道路の真ん中でスケッチをするわけにはいかないから、明日、カメラを持ってこよう。とりあえず、私は校門前の花壇に座って、スケッチブックを広げた。
「なんか、青春って感じでいいね」
撮影した写真とスケッチ画を見せると、先輩は褒めてくれた。顧問も傍にきて、私のスケッチを眺めている。
「電線は省いてもいいね。中川の技法だと、難しいだろうから。絵は、写真と違って余計な部分を省くことができるのが、強味だからね」
でも、省き過ぎないように。そう言って、顧問は美術準備室に戻っていった。
「とりあえず、描いてみるといいよ。途中、煮詰まったら声を掛けて。手伝えることは手伝うから。大き目のカンバスがいいかな。張っておくから、明日には描きはじめられるよ」
そう言って、乾燥棚の上に積まれたカンバスを手に取った。
「画材はアクリルガッシュだったよね」
私はまだ、油絵を描いたことがない。扱い方を知らない。私ははい、と頷いた。
「じゃ、ケント紙でいいかな」
そう言いながら、ペンチを使って紙をはがしていく。
「あ、手伝います」
手伝うも何も、私が使うカンバスなのだから、自分でやらないと駄目だろう。
「そう。助かるよ」
そう言って、先輩は笑った。
先輩は手際よくケント紙を濡らして、板に貼りつける。どう手伝ったらいいのか、私は戸惑う。
「そっち、紙がずれないように持っててくれる?」
端をスタッカーで止めながら、先輩が言った。私は指先に力を入れて、紙を押さえる。水で濡れたケント紙は、私の熱を吸って生ぬるい。
「そんなに力まなくても大丈夫だよ。はい、反対側」
手際よくスタッカーを打った先輩が、カンバスを返す。
「あ、自分でやってみる?」
「はい」
私は返事をして、スタッカーを受け取った。
「思いきり引っ張って打ってね。大丈夫、破けやしないから」
先輩に指示されたとおり、思いきり引っ張る。引っ張って、側面をスタッカーで止める。
「あ……」
久しぶりに使うスタッカーはうまく刺さってくれない。刃がぐにゃりと曲がって潰れた。
「横に打てばいいよ。まっすぐ当てて思いきり押してごらん」
先輩のアドバイスに従って、やってみる。さくっとした、気持ちの良い手応えがあった。
「うん、うまいね」
褒められて、私はちょっと嬉しくなる。側面も打って、私のカンバスは完成した。
B二サイズを描くのは初めてだけれど、今から頑張ればきっと文化祭に間に合う。間に合わせて、先輩に褒めてもらうのだ。
私は真っ白なカンバスに、完成した自分の絵を想い浮かべた。
私は遅筆だ。そんなことは分かっていたけれど、なかなか進まない絵に、苛立ちを覚え始めていた。フィンチの技法は、時間がかかる。集中力も必要だ。そう、私は集中力がない。一時間もすると、すぐに休憩に入りたがる。今日消費したミルクティーは、既に三本になっている。
それと反して、先輩の集中力は素晴らしいと思う。話しかけられても、筆を止めない。口を開きながらも、手は絵に向っている。文化祭用の絵は、既に三枚目に突入したらしい。
友人の山口と並んで、カンバスに向かう。山口は、水彩画だ。淡い色調で、どこかの田園風景を描いている。私も水彩画にするべきだっただろうか。すらすらと筆を運ぶ山口が、羨ましい。
「煮詰まっちゃった?」
溜息をついていたら、先輩が話しかけてきた。自分の絵に向いながらも、私のことを気にしてくれていたんだろうか。
「ちょっと集中力が続かなくて……」
私は素直に白状する。
「急がなくても大丈夫だよ。まだ一か月近くあるし。空の青がいいね」
そう言って、さりげなく褒めてくれる。空の色は気に入っている。ただ、ぼんやりとした色を選んだせいか、葉っぱの緑が主張しすぎてうるさい。
「空はいいんですが、緑が決まらなくて……」
「緑かあ……。彩度を落としちゃってもいいと思うんだけどね。ちょっとパレット貸してくれる?」
私は先輩に、もっていたパレットを渡した。
「んー……このくらいの色ならどうだろ。これを加えたら、調和すると思うんだけど」
さらっと色を作ってくれた。私はその色を、カンバスにのせてみる。
「あいますね」
先輩の作ってくれた色は完璧だった。私は点を書き加えていく。
「ありがとうございます」
「頑張ってね」
お礼を言うと、肩を軽くたたかれた。離れて行くとき、先輩の体から、ふわっといい香りが浮かんだ。どんなシャンプーを使っているんだろう。私は筆を持ちながらも、どきどきした。
平静を装って、筆を遣う。少し、頬が熱い。隣の山口には気づかれていないだろうか。まだ暑い季節じゃないのに。筆を持つ手に汗がにじんだ。
梅雨の重い空気が美術室に充満している。
文化祭まで二週間をきったところで、私の絵は完成した。
「いい出来だね」
私の絵をみた先輩は、にっこりとほほ笑んだ。いつもはきつめの眼差しが緩んで、やわらかな顔になる。
「描いてくれて嬉しいよ。展示のしがいがある」
私もこんなやさしい絵がかけたらいいのに。先輩が続けて言った。
私は戸惑った。だって、先輩の絵は素晴らしい。私なんか足元にも及ばない。そんな先輩が、私の絵を見て羨ましがるなんて、おかしい。
「ああ、困らせてごめんね?」
「あ、いえ……。でも、先輩の絵は、私の絵なんかより、よっぽど素敵だと思います。その、うまく言えないんですが……」
私の口は、もっと気の利いたことが言えないんだろうか。焦りが余計に思考を塞ぐ。
焦る私を見て、先輩が苦笑した。
「困らせちゃったついでに言っちゃうとね。私の絵は、技術だけなんだよ。なんの情熱も主張もない、ただのつまらない絵」
どこか寂しそうに、そう呟いた。
「だから、中川のように、やさしい絵を描ける子が羨ましいんだ」
そうなんだろうか。私はイーゼルにかかった完成間近の先輩の絵を見る。正確に描かれた静物画。存在感があって、とても上手だと思う。高校生でこれだけ描けるのは、すごいことなんじゃないだろうか。
返事に困っていたら、先輩が表情を変えた。
「ごめん、今のは愚痴。忘れて」
さらっと言って、乾燥棚に歩いていった。私の絵を、やさしい手つきで乾燥棚にしまう。
技術だけと言った先輩の寂しそうな顔。先輩は、美大への進学を希望していると以前言っていた。そして、受けるに値する技術は既に持っていると思う。自分で描くのは苦手だけれど、たくさんの絵をみてきた私は、そう思う。
先輩は自分に厳しいのではないか。私は先輩の絵をじっと見つめた。
文化祭まで一週間。自分の絵を完成させた先輩は、美術部員全員で取り組んでいることになっているモノクロのオードリー・ヘップバーンを描いている。元絵の写真を大きく拡大して、板張りの大きな特製カンバスにモノトーンで描いていく。顧問がひとつくらいは全員で取り組むようにといったが、真面目に手伝ったのは山口と私だけ。
今日は、山口はアルバイトの日だから、いない。私と先輩だけで、大きなオードリーを描いていく。
顧問が指示した鉛筆のとおりに絵の具を段階的に塗っていくだけだから、時間はかかるけれど簡単な作業だ。それに先輩が一緒だ。私はなけなしの集中力を絞って、筆を走らせる。
「少し休憩をいれようか」
時計を見て、先輩が言った。教室の壁にかかった時計は、午後六時を指している。
「ちょっとお腹空いたね。コンビニで甘いものでもおごるよ」
先輩が、財布を取り出しながら言った。どこのブランドかは疎い私には分からないけれど、とても高そうだ。
奢ってもらっていいんだろうか。私は少し悩んで、好意に甘えることにした。
夏至を間近に、太陽はまだ光を放っている。私はゆったりと歩く先輩の後ろをついていく。身長が違うから、歩幅が合わない。
先輩とふたりきりで夕陽の中を歩く。美術室以外で一緒になったことがないから、ちょっと、不思議な感じがした。
ふわりといい香りが浮く。以前嗅いだのと、同じ香りだ。
「あの……」
「何?」
「先輩、シャンプー何使ってるんですか?」
気付いた時には、問いかけていた。脈絡もない話を振ってしまった。私はそのことに気付いて恥ずかしくなった。
「あの、なんか、いい香りだなって……その」
必死に取り繕う私に気付かないのか、先輩が首を傾げた。
「モナルダのビンテージローズシャンプーだよ。美容院で売ってるの。そんなに匂うかな?」
長い髪をつまんで、匂いを嗅ぐ。そんな仕草も、先輩がするとさまになる。
「あ、きついとかじゃないです。私も買ってみたいなって思って」
「使ってみたかったら、一個ボトルあげるよ。サービスでもらったのあるから」
私の焦りに頓着することもなく、先輩が言う。
「いえ、ちゃんと自分で買いますから大丈夫です」
なんだか、ねだってしまったようで、悪い気がする。
「いいよ。もらいものだから。今度持ってくるね」
そう言って、前を向いた。
もらっちゃっていいんだろうか。先輩はお金持ちのお嬢様だと二年生の先輩が言っていたけれど。たかってしまったようで心苦しい。
今から奢ってもらうのにそんなことを考えるのは矛盾しているかもしれないけど。先輩はもう、振り向くことなく歩いている。私はお礼を言いそびれてしまった。
悩みながら歩いていると、すぐにコンビニについた。文化祭前で遅くまで残る人が多いせいか、見慣れた制服が店内に見える。
「中川は何が好き?」
パッケージされたガトーショコラを籠に入れながら、先輩が言った。
「なんでも食べます」
私は間抜けな応答をした。先輩が笑う。
「食べたいもの、籠に入れちゃって。先生の分も買っていこっか」
そう言いながら先輩は、チョコレート菓子を籠に入れていく。チョコレートが好きなんだろうか。私は安い豆大福を選んだ。
会計の時に一応お財布を出したら、後輩は甘えとくもんだよ、とあっさり断られた。せめて、と私は荷物持ちを申し出る。
「悪いね。持ってもらっちゃって」
先輩が言ってくれる。先輩はさばさばした性格のせいか、ぶっきらぼうに見えることが多いけど、基本的にやさしい。さりげなくかけてくれる一言が、なんだか嬉しい。
私は先輩に憧れているようだ。私の持っていないものを当たり前のように備えている。外見も性格も絵も。
私も先輩のようになれたらいいのに。歩きながら、そんなことを思った。
翌日、先輩は言葉通りにシャンプーを持って来てくれた。先輩と同じ香り。蓋を開けて、匂いを嗅いでみる。薔薇の瑞々しい香りが、鼻孔に残る。
「いい香りですね」
「でしょ。疲れてる時は、その香りが一番いいんだ。元気な時はこれ」
そう言って、今度は小さなサンプルを取り出した。
「こっちもいい香りだよ。よかったら使ってみて?」
遠慮する私の手に、押し付けた。
先輩と同じシャンプーを使ったからといって先輩になれるわけじゃないけれど、私は嬉しい。
オードリーを仕上げる手にも、力が入る。一番濃い影は全て塗り終えて、完成形が見えてきた。今度は中間色を入れる番だ。今日は山口もいる。三人で、筆を走らせる。
「休憩にしよっか」
あっという間に時間が経っていた。時計をみて、先輩が言った。
「あ、今日は私、ケーキを持って来てるんです」
私は準備室の冷蔵庫に入れてもらっていた箱を取りに行く。昨日の夜、四時間かけた力作だ。シャンプーのお礼代わりに頑張って作ったのだ。
「お口に合えばいいんですが」
そう言って、先輩に差し出す。
「おいしい」
一口食べた先輩は、そう言って笑顔を浮かべてくれた。
「これ、挟んであるのオレンジのムースだよね? チョコムースにすごく合う」
やっぱりチョコレートが好きなんだ。作ってよかった。先輩の嬉しそうな顔に、私も嬉しくなってくる。
「中川は料理が上手なんだね。いいお嫁さんになれるよ」
そう言いながら、ケーキを口に運んでいく。
「うん、確かにおいしい」
隣で山口が、ケーキを頬張りながら言った。同じ女の子なのに、食べる姿がまるで違って見える。先輩は上品だけれど、山口はがっつく感じだ。もう少しかわいく食べればいいのに。お節介なことを考えながら、私もケーキを咀嚼する。
「よかったら、持って帰って下さい。シャンプーのお礼です」
「いいの?」
先輩が、心から嬉しそうな顔をした。
「こっちにカットしたのを入れてあるので」
新しい箱を、差し出す。ネットで検索したシャンプーは、それなりの価格だった。少なくとも、私のお小遣いで買うには厳しい。シャンプーに釣り合うかどうかは分からないけれど、せめてもの気持ちだ。
「悪いね、気を遣わせちゃって」
そう言いながらも、先輩は嬉しそうに冷蔵庫にしまった。
「じゃ、続き、頑張ろうか」
その日、私たちは八時まで残って作業に没頭した。
文化祭はあっという間に来て、そして過ぎ去っていった。文化祭を最後に、先輩は部長の座から降りる。来なくなってしまうんだろうか。私は寂しい気持ちになったが、そうではなかったらしい。
部長の仕事を二年生に任せて、先輩は美大進学のためのデッサンに打ち込み始めた。石膏像とにらみ合っては、デッサンをあげていく。毎日が真剣勝負だ。
私は特に描きたいものがなかったから、先輩の邪魔をしないよう、あまり美術室に寄りつかなくなった。用がないのにいても邪魔だろう。顧問も、先輩への指導に力を入れている。
先輩と話ができないのはちょっと寂しかったけれど、私には先輩とお揃いのシャンプーがある。同じ香りを共有することが、なんだか嬉しかった。私も先輩のようになりたい。先輩の受験が終わったら、私もデッサンを学んでみようか。そんなことを考えた。
「一枚、夏休みの間に絵を描いてみない?」
二宮先輩にそう言われたのは、終業式間近のある日のことだった。
「中川はいい絵を描くからさ、見てみたいんだ」
期待されているんだろうか。確かに、美術部の中でまともに絵を描いているのは、先輩と山口と私だけだけれど。山口は言われなかったんだろうか。私の胸は、先輩の言葉に躍る。
私の絵を見てみたい。そう言った先輩の眼は柔らかな光を湛えている。
「忙しかったらいいんだけど。もし、気が向いたら描いてみてくれる?」
私は元気よく、はい、と答えた。
どんな絵がいいだろう。どんな絵を描いたら褒めてくれるだろう。私は考える。夏休みは長い。四十日あれば、じっくり絵に取り組める。先輩を失望させることのない絵を描きたい。
私は家に帰ってから、毎日スケッチブックと睨みあった。ああでもない、こうでもない。無駄に鉛筆で汚された紙を量産した。
悩んだ末に決めたのは、夏の青い空だった。草原の上に、雲が走っている。絵の隅に、小さな人影が見える。赤とんぼを追いかける子供たち。小さいころに、山に行った時に見た光景だ。描き込みが少ない分、難しいかもしれないけれど、きっと描ける。描いてみせる。
意気込んだところで、カンバスを持って帰るのを忘れていたことに気付いた。どれだけ浮かれていたんだろう。時計を見ると、午後四時を指している。
明日でもいいけれど、せっかく決まったのだから、勢いがあるうちに取り掛かりたい。そう思った私は、学校へ向かった。
夏休みの学校は、静まり返っていた。先輩はいるかな。逢えたら嬉しいな。そんなことを考えながら、廊下を歩く。特別棟に入って、扉に手をかけようとしたところだった。
「あっ……」
美術室の中から、小さな声が聞こえてきた。何の声だろう。私はかけていた戸から手を離す。中はカーテンが閉まっていて見えない。
「理央さん、だめ……」
甘えるような声。私は硬直した。
「駄目じゃないでしょ」
二宮先輩の声が聞こえてくる。
「やんっ……」
これは、あの声だ。私の頬に血が上る。
「ありす、かわいいよ」
囁く声が、かすかに聞こえてくる。ありすって誰。誰が二宮先輩と――。私は扉から離れてふらふらと柱の陰に座り込む。
心臓がどくどくと鳴る。うるさくてたまらない。なのに、あの声は聞こえてくる。さっさと動いて立ち去ればいいのに。私は縫いとめられたように動けない。足が震える。
美術室の中からは、嬌声が聞こえている。感極まった声が響いて静かになる。
私は結局最後まで、聴いていた。
「帰ろっか」
二宮先輩の声が聞こえて、扉が開いた。私は柱の陰に、体を押し付ける。盗み聞きしていたことがバレてはいけない。足音が遠くなるのを確認して、柱の陰から窺った。昇降口に、先輩が消える。小さく見えたショートボブの女の子。あれがありすだろうか。履いているスリッパの緑色は、三年生のものだ。
私は震える足をなんとか動かして、反対側へ進む。
先輩が美術室で、誰かとしていた。ありすという女の子と。廊下を曲がって、腰を下ろす。垂れてくる汗がうっとおしいけれど、ハンカチを出す気にもなれない。出す気にもなれないんじゃない。手が、足が震えて言うことを聞かないのだ。
先輩が、他の女の子と――。
なぜだろう、涙が出てきた。こんなところで泣くわけにはいかない。なのに、涙は勝手に溢れ出てくる。私は声を押し殺した。
「八月十一日に恒例の美術館巡りを行います。参加希望者は、部長に返信すること」
簡素なメールが送られてきたのは、七月の最終日だった。
私はあれから、絵を描くこともなく、ただ無為に日々を過ごしていた。ショックが強かったのだ。憧れていた先輩の情事。相手は私ではない。なぜ涙が出たのか考えた。答えは簡単だった。たぶん、私は二宮先輩に恋をしていたのだ。それが、気付く間もなく、あっさりと消えてしまった。
あれだけ期待に応えようとしていたのに、絵を描く気力が湧いてこない。美術館巡りも、参加しようかどうしようか迷った。
県東部の美術館。私の好きな画家の特別展も開催されている。何もなければ、喜んで行っただろう。ただ、今は先輩の顔をまともに見られない気がする。不参加にしよう、そう思った時だった。携帯が鳴った。
「もしもし、中川。今、いい?」
丸っこい声で、山口が聞いてくる。私はいいよとぞんざいに返事をした。
「美術館巡りなんだけどさー」
予想通りだった。私は不参加だよ。そう言うと、山口が不満げな声を出した。
「ひとりじゃ寂しいじゃん。中川も行こうよー」
語尾を延ばしながら言う。しつこい。
「私、夏バテしてるから。やめておくよ」
そう断ったのに、中川は食い下がる。
「二宮先輩も来るみたいよ?」
電話の向こうで、山口が悪戯っぽく言った。
「それがどうかしたの?」
私の声は固くなる。不自然なほどに。
「あれー? 中川って二宮先輩に懐いてたじゃん。行かないの?」
私の態度は、山口にばればれだったのか。気付いていないのは私だけだったのか。これ以上断ったら不審に思われるだろうか。
「二宮先輩のことは大好きだよ」
私は大の言葉に力を込めた。大好きなんじゃない。好きだったんだ。恋愛の意味で。きっと。気付く前に終わってしまったけれど。
「じゃあ行こうよ。楽しみにしてるね」
山口はそう言って、一方的に電話を切ってしまった。私は溜息を吐く。私は先輩の前で、どんな顔を作ったらいいんだろうか。
畳に寝転がる。蝉の泣き声がうるさい。私は座布団を抱き寄せた。
八月十一日は、晴天に恵まれた。それはもう、暑苦しいほどに。アスファルトが揺らぐ中、私は集合場所の駅に着いた。
「あ、中川」
最初に私に気付いたのは二宮先輩だった。山口も顧問も来ていた。
先輩は上品なワンピースを着て、日傘を差している。汗だくの山口の隣で、先輩は涼しげに立っている。山口は日影にいるけれど、まとう空気が違うのだ。
あの日のことを思い出して、頬が強張った。私は無理矢理、作り笑いを浮かべて駆け寄った。
「おはようございます」
声が震えそうになるのをなんとか抑えた。私は既に、背中に気持ち悪い汗をかいている。
「今日は暑いですね」
そんな、当たり前のことを口にする。そんな言葉しか浮かばない。
「本当にね。あとは部長だけかな」
二宮先輩の後任になった二年の村田先輩は、まだ来ていない。部長なのに。二宮先輩とは大違いだ。
「遅くなってごめんなさい」
しばらく待っていると、村田先輩がやってきた。私達は、ホームへ向かう。
電車はすぐに来た。中へ乗り込むと、冷やされた空気が心地いい。
「先輩どうぞ」
山口が、ボックス席の窓際に二宮先輩を促した。向かいに村田先輩が座る。私は座る場所に躊躇した。先輩の隣りは避けたい。さりげなく、山口に二宮先輩の隣を勧める。
ボックス席は狭い。村田先輩と腕が触れそうだ。二宮先輩の隣りでなくてよかったと心底思った。あの日のことを意識してしまいそうで、不安だからだ。
電車が動き出して、他愛のない話で盛り上がる。私は自分からは話題を振らない。口を開いたら、ボロが出そうだ。ただ、笑顔で相槌を打つ。
村田先輩がお喋りで良かった。そう思いながら村田先輩の話に頷いていた時だった。
「そういえば、二宮先輩って、彼氏いないんですか?」
二宮先輩の服装を褒めていた村田先輩が、不意に言った。私の頬がひくつく。
「ん。どうだろうね」
先輩は、にっこり笑って答えた。意味深なその微笑みに、村田先輩がはしゃいだ声をあげる。
「なんか先輩、今日きれいだし。彼氏でもできたんじゃないですか?」
彼氏じゃなくて彼女だよ。私は心の中で呟く。嫌な気持ちが湧いてくる。記憶の中で、ショートボブが揺れた。
「そういう村田は?」
「私は二次元が恋人ですから」
そう言って、携帯の待ち受け画面を嬉しそうに見せた。
「それも楽しくていいよね」
嫌味なく、さらりと言う。長い指で髪をかき上げる。その仕草が艶っぽい。その指で、その唇であの人と――。私は思いだしたくもないのに思いだしてしまう。
不自然でも、顧問と一緒に座ればよかった。顧問は通路を挟んだ向かい側の席で、舟を漕いでいる。
目的駅までの一時間が、やけに長く感じた。
本日の目的地の美術館は、県東部にある、小さな美術館だ。マグリットの特別展を開催しているという理由で、選んだらしい。
「村田先輩は、マグリットが好きなんですか?」
私は二宮先輩から離れたかったから、村田先輩にくっついて動くことにした。
「うん、なんかシニカルで面白いから好き。色使いも綺麗だしさ」
そのくらいの感想しか出て来ない。二宮先輩だったらどうだろう。二宮先輩は、山口と何か楽しそうに話しながら私達の後ろを歩いている。
本当なら、二宮先輩の横には私がいるはずだったのに。あんなことを知ってしまった今の私はもう、無邪気に隣にいることができない。
鼻の奥がつんとした。私はそっと息を吸い込んだ。
マグリットの展示会は見ごたえはあった。でも、今の私の心の雲を吹き払ってくれるほどのものではなかった。
疲れた。私は自分の部屋で、畳に転がる。開きっぱなしのスケッチブックが目に入る。あれから、全く進んでいない。進んでいないどころか、カンバスすら持って帰っていない。私はあの美術室に入ることができないでいた。
中川はいい絵を描くからさ、見てみたいんだ。
先輩の言葉を反芻する。いい絵を描く。今は描ける気がしない。まだ私は、気付かずに消えてしまった恋の痛みから、立ち直っていない。
なぜあの人なんだろう。あの人は、美術部員じゃない。絵も描けない。絵のこともきっと知らない。先輩の隣にいるのにふさわしくない。私のほうが――。
そんなつまらないことを考える。
あの人のことをけなしてもけなしても、私の雲は払われることはない。
結局、私は夏休みに一枚も絵を描くことができなかった。
夏休みが明けて、私は学校へ通った。美術室には先輩の邪魔になったらいけないからという理由をつけて、顔を出さなかった。この言い訳は、先輩が志望校に合格したら使えなくなる。それまでに気持ちにケリをつけなければ。
私が焦っている間に、季節は無慈悲に変わってしまった。あれだけ暑かったのに、もう寒いくらいだ。
山口が、先輩が志望校に受かったことを伝えてきた。もう、言い訳は使えない。
私は久しぶりに美術室へ顔を出した。
「合格おめでとうございます」
私が言うと、先輩は笑った。だけど、どこか寂しそうだ。何かあったんだろうか。そう思っても、問いかける言葉が見つからない。
「中川、絵のほうはどう?」
会話に困っていると、先輩が聞いてきた。
「あの……構図が決まらなくて……」
私は嘘をついた。構図は決まっている。
「悩んでるなら、見ようか?」
私は仕方なく、スケッチブックを取り出す。何枚か描いたスケッチを見せる。
「中川の絵なら、この構図がいいんじゃない?」
先輩が指示したのは、まさに私が描こうと思っていた構図だった。
「これでいってみてもいいと思うよ?」
先輩の言葉に頷く。頷くしかない。いつまでもだらだらと先延ばしにしても仕方がないのだ。
「じゃあ、これでやってみます。……家で描いてもいいですか?」
「いいけど、どうしたの?」
あなたがあの人としていた美術室で描きたくないです。そう言いたかったけれど、私は言えなかった。言えるわけがない。
「家の方が落ち着いて描けるみたいで」
嘘だ。家にはイーゼルもないから、描きにくい。弟はうるさいし、集中できるわけがない。
「そっか。ならそうしたらいいよ。完成、楽しみにしてる」
もう言い訳ができない。観念した私は、カンバスを持って帰った。
胡坐を掻いて、B三の真っ白いカンバスと向き合う。私は鉛筆をのろのろと走らせる。楽しみにしていると言われた。ならば、先輩が卒業されるまでには完成させなければいけない。私は後ろ向きな気持ちで、絵と向き合った。
「なんか、きれいだけどさみしい絵だね」
二月に入って、絵は完成した。完成した絵をみた山口が、言った。
夏らしい青空を描くはずだった空は、当初の予定を外れて、夕暮れ色に染まっている。無邪気に踊っているはずだった人影は、何かを待っているように佇んでいる。
「この人、何を待っているの?」
山口は鋭い。私の絵についての解釈を求めてくる。
「待ってるわけじゃないよ」
私は苦し紛れに言った。それ以上、絵について話さないで欲しい。
「そうなの? なんていうかさー、うーん。うまく言えないな」
言わなくていい。私は解釈されたくない。
「ああ、分かった。なんか、届かないものを求めてる寂しさだ。うん、そんな感じ」
私は山口の言葉にかっとなった。届かないものを求めている寂しさ。私のことだ。絵にまで表れてしまった。こんな絵、先輩には見せられない。
「ちょっと、何するの!」
私は端を持って、ケント紙を破いた。とめようとする山口の手を振り払って、破いていく。絵の具の欠片が、床に落ちる。
山口の声に、紙を破る音に、教室の隅で漫画を読んでいた村田先輩が駆け寄ってきた。
「どうしたの、中川。なにしてるの」
とめたって無駄だ。もう、絵は破いてしまった。私は荒い息を吐く。指先が冷たい。
「せっかく描いたのに……」
村田先輩が言うけれど、こんな絵に、価値なんてない。二宮先輩に、見せられるわけがないんだ。視界が滲む。絵の具の欠片が制服に散らばる。私は泣いていた。
三月に入ってすぐ、卒業式が行われた。
参列するのは二年生だけだから、私は行く必要はない。それでも、最後に二宮先輩に逢いたくて、私は学校に行った。
「卒業おめでとうございます」
みんなで声を揃えて、花束を渡す。他の先輩は来なかった。人数分用意した花束は、四つ余っていた。
「ありがとう、みんな」
二宮先輩が嬉しそうに笑った。絵を破いてしまった私は、まともに先輩の顔が見られない。
「そういえば、中川、絵はどうなった?」
山口と村田先輩が顔を合わせた。
「あれ、結局、うまくいかなくて……」
私は嘘を吐いた。破いたと言ったら、きっと心配される。
「そう。残念だね。素敵な絵になりそうだったのに」
そう。きっと、当初の予定通りに描けていたなら、素敵な絵になっただろう。でも、私には描けなかった。絵に表れたのは、届かない先輩を求めている私だ。そんなもの、先輩に見られたくない。
みんなが先輩に話しかける中、私は俯いていた。今日で先輩に逢えるのは最後。なんで私はきちんと描けなかったんだろう。描けていれば、先輩の期待に応えることができたのに。喉が痛い。涙がこみあげてくる。私は嗚咽を堪えることができない。
「中川?」
二宮先輩が、心配そうに覗き込んできた。
「やだ。そんな、泣かないでよ。絵なんて、何度も失敗するものなんだから」
ごめんね、プレッシャーかけちゃったね。そう言って、先輩が私の肩に触れる。私は首をふる。この涙は、先輩のせいじゃない。
「あ、ほら、中川は先輩のこと大好きだったから、離れるのが哀しいんですよ、きっと」
山口が助け舟を出した。
そう、私は哀しい。先輩の期待に応えられなかったことが。先輩の隣にいるのが、私ではなかったことが。そしてもう、先輩に逢えないことが。
「そっか。ありがとうね」
そう言って、二宮先輩は私の首にマフラーを巻いた。
「よかったら、これ使って。形見じゃなくてお守りじゃなくて……なんて言うんだっけ? まあ、そんなもの」
私は顔をあげた。先輩はやさしく微笑んでくれている。高そうなマフラーからは、先輩の香りがする。みずみずしい、薔薇の香り。私と一緒の。
私からも何か渡せるものはないだろうか。
「先輩、これ」
私は、髪留めを外した。
「こんなものしかないけど。私の代わりに傍に置いて下さい」
先輩は少し驚いた顔をして、受け取ってくれた。長い髪を髪留めで束ねる。
「なんか私、愛されてるね」
そう言って、はにかんだ。
「じゃあ、行くね」
先輩が手を振った。私はぐしゃぐしゃな顔で、振りかえす。
さようなら、先輩。先輩のことが好きでした。気付く前に終わってしまったけれど、私は先輩に恋をしていました。
山口が、私の背を撫でる。
私はマフラーに顔を埋めた。