その男、迷惑につき
「さて」
西国でもそうは見られない上等なスーツの男は、嵐が過ぎ去ったあとのように、珍しく人前でタイを直した。
年齢のよく分からない上等そうな男は、およそ辺境のギルドには似合わない男だ。
ミカエリ・ジョーンズ、という名のこの男のことを、ギルドの関係者で知らない者はいない。
しかし、一般の、ギルドに属さない者は彼の顔すらも知らないので、彼のことが公になることは少なかった。
「マチス君。早急に原稿用紙と予備の万年筆と、旅に必要そうなものをリストアップしてくれ」
直属の上司である彼に言われ、ブエナは顔色を変えずに頷いた。
「はい。わかりました」
「窓口は他の人たちに任せていいから。今日はその仕事をしてくれ。ああ、それと、他のギルドにこの連絡を回しておいて」
渡された紙には、先程まで所長が自ら応対していた女性のことが書かれていた。
旅行の記録を出版物に?
なるほど、面白い担保だ。
だが、そんなことをしなくても、彼女に融資するには充分な条件があったはずだ。
それを目の前の上司が知らないはずも、気付かないはずもなかった。
「あの、所長」
ブエナは思わずさっさと窓口から去っていこうとする上司に声をかけてしまった。
「この、ヨウコ・キミジマ様は、メフィステニス伯爵のご令嬢ということでしたから、身元がはっきりしていますし、担保が無くても貸出が出来たんじゃ……」
言いかけて、上司ではあるがにっこりと笑った胡散臭い顔に口を閉じる。
「彼女は面白い知識があるようだよ。すでにラーゴスタの書記官から彼女の発案名で打診が来ている」
ブエナは、昨日訪れていたラーゴスタの深緑の髪の迷い人書記官を思い出していた。確か、そんな申請をこの胡散臭い上司にしていたようだ。
だが、そんなことは一言も彼女に教えていないらしい。
もしも、昨日の書記官が申請した食べ物が研究審査を通れば、発案者の彼女には研究費の名目で、今回申請した融資よりも多いぐらいの額が一度に支給されるだろう。
ブエナはにんまりする上司を見ながら、さっきの黒髪の女性を思い出していた。
背が少し高いほどの女性だ。ろくな着替えもないからか、身奇麗にはしているがマントを抱えた姿はまるで少年だった。
だが、面白いことを思いつく女性のようだ。
ギルドの所員は就職したら直ちに各地に飛ばされるので、本拠の北国で勤められる者は少ない。各地を転々と派遣されるので、色々な他国の風土に触れて過ごす。そのため、他の地域の者より他国の風習などに興味がある。しかし、派遣されるものの、ギルドと寮との往復で、データ以上の詳しい土地のことなど知らないまま他に飛ばされることがままある。それに、観光に行くにも自分一人では限度があったりするが、ガイドをつけるほどのことではないので、結局、それきりになってしまうこともある。
とにかく、その土地の情報が欲しいのだ。
しかし、今までそういう情報を集めようとした酔狂な者はなくて、本もまた然りだ。
彼女の日記がもしも本になるのなら、ブエナは個人的にも楽しみだった。
しかし、だ。
「私もそろそろ北の本国に戻ろうかなぁ」
目の前でぶらぶらしながら呟く上司は非情だが、ギルドの誰も彼には逆らえない。
「他のマイスターの連中がうるさくなってきたからね。うん。あの子も北に来るみたいだし、一度戻るよ」
このミカエリ・ジョーンズという男は、ラーゴスタの辺境支部長などという肩書の他に、きちんとした肩書を持っている。
ギルドマイスター。
ギルドの最高責任者だ。
「というわけだから、ブエナ・マチス君。君も本国へ帰ろう」
ブエナは心の中で盛大に溜息をついた。
この上司は、視察と称して災害や紛争が起こりそうな辺境にわざわざ赴任するのが趣味の迷惑な上司だ。
お陰で秘書兼部下であるブエナは、結婚適齢期を過ぎても未だ落ち着いた住処を持つことができないでいる。
ご愁傷様。
ブエナはひっそりと、ヨウコ・キミジマの行く末を案じた。
このハタ迷惑な上司に目をつけられたことは、彼女にとって幸か不幸か。
それはブエナにも、わかるはずもないことなのだが。




