恵まれた青年領主
ヴィオレット・デ・バクスランドは、苛々と次々上がってくる悲鳴を一喝した。
「ふざけるな!」
ヴィオレット自身も初めて見る、腹臣たちの戸惑いの表情にますます苛立って、目の前の執務机を叩き割らんばかりに殴りつけた。
これは何かの悪夢だ。
そうとしか思えなかった。
周到に罠を張り、もう一息でその獲物の首を食い破れるというところまできたというのに。
まさか、見知らぬ軍にすでに西国最強とまで謳われるようにまでなった自軍が、たった一夜でここまで追いこまれるとは。
認めたくなかった。
認められるはずもなかった。
ヴィオレットは元々、バクスランドを継ぐ役目にはなかった。
妾腹の第三子として生まれ、二人の腹違いの兄たちと違って、到底跡目争いなどに加われるような順番でも身分でもなく、ヴィオレット自身も好きな剣の道さえ極められれば、兄たちやこちらに見向きもしない父など、どうなろうと知ったことではなかった。
その単純な平穏が崩れ去ったのは、父の早逝だ。正妃の他に他領から招いた妾を十人も持ち、あれだけ頑丈だったはずの父が病に倒れてすぐに死んだ。あとには、元々仲の悪かった兄二人の争いが始まってしまった。
バクスランドの領地は荒れに荒れた。畦には誰ともつかない死体が転がり、あれだけ巣食っていたはずの佞臣共は、いち早く領地から出ていった。
あとに残ったのは、形ばかり強力な兄と弟に別れた軍隊と、荒れ果てた領地。そして飢えた領民たち。
我慢ならなかった。
生来、短気な性質だったヴィオレットは一年の我慢の末に、自分を慕ってついてきてくれていた兵士や臣下を集めて、兄たちを討った。
それが三年前のこと。
ボロボロになった領地を立て直すために、やれることは何でもやった。
中央政府に助力してもらうために、王が迷い人を兵隊にして東国と戦争をすると聞いて、迷い人狩りをやった。彼らの財産を全て没収し、それを国の高官共にばらまいてやった。
凶行を繰り返すヴィオレットは、いつしか西国最強の悪魔領主として恐れられるようになっていた。
ある日、ヴィオレットの周囲に付きまとうようになった一人の高官が醜い笑いを交えながら教えてくれた。
ヴィオレットと同じくして、隣領のラーゴスタも代替わりしたと。そしてその領主はまだ十六の姫だという。
ラーゴスタといえば、隣領のよしみとしてバクスランドにも常々援助をしてくれている豊かな領地だ。少ない耕地を耕すバクスランドと違って、砂漠の真ん中で一大貿易拠点として発展し、近隣領地の一番の出世頭だ。
これを、我がものにしてはどうかと。
その高官は、ヴィオレットに囁いた。
奪うことにはすでに慣れていた。
すぐに、ラーゴスタへ宣戦布告した。
かの領地から嫁いだのが、ヴィオレットの母だ。関係から言えばラーゴスタの姫とは従妹にあたるが、そんなことは領民を守るためならどうでもいいことだ。
ラーゴスタは不当な要求を当然拒否し、戦争になった。
しかし、百戦錬磨のバクスランドをして、戦争経験のほとんどないラーゴスタなど赤子の手をひねるようなものだった。
度重なる威嚇射撃にラーゴスタの領民は次々に領地を脱し、三年経った今ではすでに城主とその部下たちだけになっていた。
そのはずだった。
最後通牒をして三日。
何もしなくとも獲物が手に入ると思われた二日目になって、一通の書簡が届いた。
それは、砂漠をまたいだ辺境の伯爵からだった。
丁寧で簡潔な書簡によれば、その伯爵領とラーゴスタは古くから付き合いがあり、このたびバクスランドとの仲介を頼まれた。今なら中央政府に伯爵から何か言い訳をつけるので、即刻ラーゴスタへの侵攻をやめろ、というものだった。
中央政府の高官は、ほとんどがすでにバクスランドの凶行に目を背けている。
それはラーゴスタにも知れていて、今更腐敗しきった政府の名前など出されたところでヴィオレットの歩みを止めるものではない。
書簡を無視したあと、一日も経たないうちに書簡が届いた。一通目とほぼ同じ内容だったが、最後の一文だけが書き加えられていた。
「この書簡を無視した場合は、五時間以内に貴領の砦が一つ落ちる」
冗談だと思った。
これを読み上げた、普段は冷徹な仮面の腹臣でさえ思わず嘲笑った。
だが、その書簡が届いた五時間後、凶報がヴィオレットの元に飛び込んだ。
「西の砦が何者かの手によって、壊滅!」
辛うじて逃げ出してきた兵士によってもたらされたのは、信じられない報告だった。
ラーゴスタか。
ここにきて、伯爵の手を借りて逆にバクスランド領へと攻め入ってきたのか。
「すぐにラーゴスタ付近に駐屯している兵に告げろ! ラーゴスタへの砲撃を開始せよ!」
魔術兵団を要した遠距離攻撃に長けた部隊を、深夜のラーゴスタへと向かわせた。
もう約束など守らない。
顔も知らぬ女狐姫め。
その死体の顔を朝日と共に拝んでやる。
昏い支配欲で皮肉に笑い、部隊を展開させた。
全部隊に出陣準備を整えさせたところで、ヴィオレットは場違いな面会届けを受け取った。
依頼主は、コローラル・ド・メフィステニス伯爵。
今回の騒動の主、身の程知らずの伯爵だ。
伯爵ごときが格上の侯爵相手に意見すればどうなるか。
思い知らせてやらなくてはならない。
だが、メフィステニスは、伯爵でありながらその名を知られた存在だ。
存在しないはずの第七十七師団を擁し、諸侯の中でも唯一、王に進言する権限を持っている。だが、歴史が古いばかりの伝説の軍隊など、バクスランドの敵ではない。
しかも、今回は話し合いという馬鹿げた提案のために、将軍である伯爵自ら部下を数人連れているだけだという。
「全軍。伯爵殿を丁重に出迎えてやれ」
ヴィオレットの命令に、誰もが戸惑った。
それは当然だ。砦とラーゴスタと各砦に分散しているとはいえ、本領に残る兵は一万を超える。
報告では、伯爵はたった一両の馬車で城を訪れている。
まったくの丸腰だ。
しかし、ヴィオレットの命令は変わらなかった。
この、頭に血が上ったヴィオレットの判断はある意味正しかった。
それが、ほんの二時間ほど前の話だ。
「ヴィオレット!」
いつも飄々としているはずの乳兄弟が執務室のドアを渾身の力で抑えて叫んだ。
嘘だ。
こんなことが。
生まれてこのかた恐怖など、感じたこともなかった。
必死だった。
誰に馬鹿にされようと、誰にも負けはしなかった。
自分は、この領地を守らなくてはならない。
ただ、それだけで。
「逃げろ!」
とうとうドアが破られた。
爆音と共に乳兄弟が吹き飛び、壁に叩きつけられた。
冷徹な腹臣が冷や汗で額を濡らしながら、剣を抜いた。
ヴィオレットも鞘から剣を引き抜く。
しかし、粉塵の向こうから現れたのは、およそこの場にはそぐわない男だった。
たった一人のメイドを連れただけの、フロックコートに片眼鏡の、杖をついた男。ただ人の興味を惹くといえば、その鷲鼻の顔を縦に走る、こめかみから頬にかけての入れ墨だろう。
男は、腹臣の後ろのヴィオレットを見つけて無表情に告げてきた。
「お初にお目にかかる。私は、コローラル・ド・メフィステニス伯爵と申します。再三の警告も無視されてしまったので、こうして話し合いに来た次第です」
いかがかな。
囁くように尋ねられても、ヴィオレットは口を動かすことが出来なかった。
これは、何者だ。
悪魔というものが、本当にこの世にいるのなら。
きっと、この男のことに違いない。