砂漠とミトン
そう、あれがネロだ。
私がひと月、あの城でネロとして過ごした、その記憶か。
ごめんなさい。
叫ぶでも、恨むでもなく、ただひたすらに彼のことを案じていた一途で素直で、馬鹿な娘。騙されても、ただ、あの赤い髪の男のことを愛していた。
幸せに、過ごさせてもらっていたらしい。
あの男のお陰で、余計なことにも巻き込まれて散々な目覚めになったが、それでも、彼が確かな愛情を持って、ネロを大切にしていてくれたから、今の私があるらしい。あの火傷で戦場に放っておかれたら、きっと私は死んでいたし、助けられたとしても奴隷として売られていたら、私は伯爵と出会う機会もなかっただろう。
その点においては、あの赤髪に感謝しなくもない。他のことはまったく許していないので、今でもその額に肉とか落書きしたいぐらいなんだが。いつか必ず書いてやるよ。
というか、黒幕はあの女だったのか。すごいもん飼ってんなーあの城。以降、化け物城と呼んでやろう。伯爵についてきて正解だったんだわ。確かにあのまま残っていたら、確実に殺されていただろう。
……てか伯爵、あの危険な女と一緒に旅に出すって、何考えてるんだ。何か、分かってて出された気がしなくもない。これ、伯爵修行の一環ですか。もしかしなくてもこの危機的状況を見事打開してみせよとかいう、獅子千尋の谷に子を蹴り落とす的なあれですか。
普通死ぬ。
というかもう死にかけですお父様。
どうしろっていうんですか。この今まさに這いずってる状況!
あの人私の運レベルの低さ(対人運に関して言えばマイナス)を鑑みてないと御見受けする!
あれだよね。ネロの記憶が蘇ってきたのって、死ぬ前に見るっていう記憶の一部が思い出されたって感じだよね?
どうすんだよ私! やばくない? 今すっげやばくない!?
自分の体がゆらゆらと揺れているのは感じていた。
手も足も、感覚はまるで無かったが、それでも手足のある感触はあった。
生きているのか。それとも死んでいるのか。
しかし、容赦のない熱が自分の身を焼いているのは分かったから、何となく生きているような気はした。
その、こんな時なのに眠くなるような心地は、長くは続かなかった。
「いだっ!」
地面に放り出された。
砂はさらさらしているけど、ふかふかしているものではなので落ちるとそこそこに痛い。
そして目や鼻に砂が入る。
ぺっぺっと砂を吐き出したら、私の隣から聞きたくもない轟音が響いた。
ダン!
耳をつんざく音を咄嗟に追いかけてみると、革の鎧を着た女の子が銃のようなものを構えている。
その先には、
「ダイモン!」
轟音の先で、怖がりながらもこちらへ近づこうとするダイモンが居た。
私は、思わず女の子の銃にしがみついた。
「うあ!」
じゅっという音と共に、何かが焼ける嫌な匂いがする。それが自分の手からだと知ると痛みを通りこして思い切り叫びたい気分になった。
「何をしている!」
女の子が血相を変えて私に叫ぶが、
「何してる、はこっちのセリフ! どうして撃つの!」
私がまくしたてると、戸惑うように目を白黒させた。
「どうして、ってあなたがあの竜に襲われていると……」
「襲ってるのはどうみてもアンタよ!」
私が叫ぶと、女の子は今度こそ押し黙った。
私は、
「撃たないでよ! 襲わないから!」
忠告して戸惑って怯えているダイモンに駆け寄った。
「大丈夫よ。ダイモン」
両腕を広げてみせる。
ダイモンは首をかしげて怯えていたが、やがて私の方へと近寄ってきた。
くんくんと私の匂いを嗅いで、やがて手の火傷に気付いたようだった。べろん、と初めて会った時のように、手を舐められた。
「……大丈夫。大丈夫だから」
舐められて、蘇ってきた痛覚が手の火傷の酷さを訴え始めたが、私は構わずダイモンに話しかけた。
「ねぇ、ダイモン。もう大丈夫よ。ありがとう」
ダイモンは少し首をかしげて舐めるのをやめた。
首を撫でてやると、落ち着いたようだ。
「ねぇ!」
振り返ると、銃を構えた女の子は不思議なものを見るように私を見ていた。
声をかけると驚いたように目を瞬かせる。
「この辺りにオアシスってある? この子みたいな動物が居るような」
私の質問に、少し戸惑っていたようだが、女の子は少し考えて、
「ここから西に、大きなオアシスがある。そこに、竜たちも居たはずだ」
嘘をつくような女の子には見えなかった。
水を持っているかと聞くと、渡してくれた。
それをダイモンに飲ませて、私は言い聞かせるようにダイモンに言った。
「いい? ここから先にお父さんやお母さんがいるオアシスがあるかもしれないんだって。大丈夫。あなたにはこの鼻があるんだもん。私より上手に見つけられるわ」
そう言うと、ダイモンがこちらを見つめてくるので、私は苦笑した。
「私は行けない。ダイモンだけで行って。その方が早いしね」
喉はからからで、足もがくがくだった。
それでも、涙は出るのだと知った。
ダイモンの首に抱きついて、私は嗚咽をごまかした。
「ありがとう。さぁ、行って」
ダイモンから離れると、少しだけ怯えるように、心配するように私を眺めていたけれど、やがて、ダイモンは私が教えた通りに、砂漠を歩いて去っていった。
本当は、姿が見えなくなるまで見送りたかったが、置いてきぼりにしている女の子を何とかしないとならない。
「ねぇ」
私が近付くと、彼女はわずかに後ずさった。なんだ、そんなにすごい格好になっているのか。
「見ての通り、遭難しかけなんだけど、助けてもらえない?」
辛うじて動く顔で口の端を上げると、彼女はほっとしたような顔で笑った。日に焼けていて、男のように鎧をまとって頭からマントを被っていたが、輝くような砂漠色の長い髪を細い三つ編みに編んだ姿は可憐で、奇麗な笑顔だった。
「もちろん」
ミトンのような分厚い手袋をこちらに差し出して、彼女は堂々と名乗った。
「私は、カルチェ・デ・ラーゴスタだ」
「ヨウコよ」
きっと、ダイモンが彼女と巡り合わせてくれたのだろう。
ビークルという砂漠専用の車に乗せられて、ようやく一息ついた私はうたた寝しながら思った。
これで少しはマシな旅になる。
そう思ったのが早計だと知ったのは、このすぐ後のことだった。
神様、居るなら殴らせてくれ。今ならタコ殴りで勘弁してやる。