思い出のない女
私が気がついた時には、もうあの人たちは居て、優しい彼女も居て、私は私だった。
「どうだ。起きられるか?」
今ならそう問われたのだと分かるけれど、その頃はそんな簡単な問いかけも理解できなかったから、見知らぬ男が自分の手を差しだしたので、思わず手を引いた。
そうして、自分の腕に鈍い痛みが走ったことに気付いて、自分の腕に包帯が巻かれていることを知った。
どうやら、怪我をしているらしい。
それを知ったと知ると、目の前の知らない男の方が痛そうに眉をひそめた。
それがあまりにも可哀想になったので、私は彼の頬を思わず撫でた。
突飛な私の行動に、彼は少し驚きはしたものの、私に苦笑してそのままにさせてくれた。
彼が、この国の国王だと知ったのは、それからだいぶ後になってからだった。
アウトロッソ・レ・ゲイネスラインという難しい名前の彼は、少し無愛想な、けれど優しい人だ。外見は、燃えるような赤い髪に鋭い黄土色の瞳で、いつも怒っているような整った顔は人を寄せ付けない。
でも、忙しい仕事の合間に、私に一生懸命、言葉を教えてくれる心の温かい人だ。
彼は私に色々なことを教えてくれた。
言葉や文字に加えて、この国が、西国ということ。行儀作法に生活に必要な程度の地理や歴史。そして、私が東国との戦場でたった一人取り残されたということも。
今、この国は東国との戦争をしているという。
東国は自国の兵士の代わりに平民である女性たちを使って、呪いの戦女神を作りだして、すでに何万人という西国の人たちを殺しているという。
ひどいことだ。
「どうして、戦争をするの?」
「東国が、我が国の民を殺したからだ」
言葉をたどたどしくだが解せるようになって、私が疑問を口にすると、アウトロッソは王様の顔になって顔をしかめた。
「でも、その何倍もの人たちが死んじゃっているんでしょう?」
私がそういうと、アウトロッソは初めて知ったというような顔で私を見つめてきた。
「東国の人も、西国の人も死ぬのは嫌だよ。どうして戦争をするの?」
「―――そうだな。……そうだった」
そう言って、アウトロッソは私の頭を撫でてくれた。
子供扱いは嫌いだったけれど、この大きな手は好きだ。
「ネロ、お前の言う通りだ」
私をネロという、その声も。
私は、自分が何者であるのか知らない。今まで何をしてきたのか、どうして戦場なんかに居たのかもしらない。
そんな私に、ネロと名前をつけてくれたのはアウトロッソだ。
そして、この城の人たちも、優しい人たちばかりだ。
「ネロさま。今日の夜会に間に合いませんわよ」
用意のために部屋に戻ったアウトロッソと別れて、私もリーエに手伝ってもらってドレスを着ている。
私の怪我が治ってから、アウトロッソとリーエは私に夜会へと出したがる。
最初のうちは、怪我と言葉が分からないことを理由に逃げ回っていたのに、言葉も分かるようになってきたこの頃では逃げることは出来なくなっていた。
黒髪の奇麗な女官長のリーエは、アウトロッソの乳母で、年齢不詳の美人だ。彼女は私が怪我で熱を出したときから優しく看病してくれていて、今も私の面倒を見てくれている。
だから、お母さんみたいでなかなか逆らえない。
「大丈夫。あなたは奇麗よ。だから今夜も行ってらっしゃい」
そう囁く言葉は、西国の言葉じゃなくて彼女の故郷の言葉だ。
どうやら私はリーエと同じ故郷らしい。西国の言葉が話せない時も、彼女の言葉は分かったから。
リーエに美しく貴婦人に仕立て上げられたところで、ドアがノックされた。リーエが応対するのを横目に、いつものように鏡とにらめっこしていると、
「やぁ、今日も夜の妖精に会えて嬉しいよ」
気障なセリフが後ろから聞こえてきて振り返る。
私と目が合うと、金髪の奇麗な男がこちらを見て微笑んだ。
上品なフロックコートの彼はイーエロ・ジ・ゲイネスライン。アウトロッソの腹違いの弟で、今は国庫を管理する財務を統括している文官のホープだ。
武で有名な兄と政治に長けた弟。この二つの両輪があるから、この西国は安泰だといわれている。
「今日も美しいね。ネロ。夜の帳も落ちない今から、攫っていきたくなるよ」
彼は、口下手な兄と違って冗談が上手い。
だから私も笑って答える。
「まだ夕方だよ。それに攫うなら妖精の方が人を攫うんだよ」
私の軽口に、イーエロは満足したようだ。
にっこりと笑って冗談をいう。
「なら、私を攫っていくかい?」
「やだよ。お城の貴族のお嬢様に怒られちゃう」
二人で笑い合ったところで、リーエが再び客を招いた。
彼は、淡い色合いの弟と違い、まるでこちらの方が夜のような深い色合いのフロックコートをまとっていた。
「アウトロッソ」
「よく似合っている」
無愛想な顔が私を見て少しだけ綻ぶ。それが嬉しかった。
私は差しだされたアウトロッソの腕に手を置いて、彼と夜会へと向かう。
だから、私は知らなかった。
その後ろ姿を、イーエロが焼けつくような、焦がれるような顔で見ていたことにも、そのイーエロをリーエが嫉妬と悲しみで満ちた顔で見つめていたことにも。
何も知らない私は、ただ、彩られた自分の世界が珍しく、楽しかった。
「ああ、これは、今日も一段と美しい」
夜会へついて、アウトロッソが夜会の始まりを宣言してから、私は彼に連れられて白髪混じりの口鬚のおじさまへと会いにいった。
「ごきげんよう。おじさま。今日は足の具合はいいの?」
「ええ、ご心配してくださりありがとうございます。今日はあなたの晴れ姿を見るために老体を引きずってきた甲斐がありましたよ」
この口鬚のおじさまは、アウトロッソの伯父様で、私を孫のように可愛がってくれている。私が城に慣れない頃には、お菓子を持ってよく遊びにきてくれていた。けれど、今は少し足を悪くされていて、馬車に乗るのも、最新型の車に乗るのも辛いようだとアウトロッソが淋しそうに言っていた。
アウトロッソとおじさまが、ちょっと難しい話をしている間、私は隣でジュースを飲んでいるのが常で、一段落つくと、
「すまなかったね。さぁ、ネロ。アウトロッソはお返ししますよ」
そんな冗談に手を取られて、私はアウトロッソと夜会のメインであるダンスを踊る。
ダンスもアウトロッソに習った。
くるくると踊るダンスが、私は好きだ。
そして、そんな私を優しく受け止めてくれる彼も。
キラキラしたシャンデリアの下で、まるでお姫様のように踊ることも楽しかったけれど、何よりも、アウトロッソが優しく微笑んでくれる。
私は、そのことが何より嬉しかった。
私はアウトロッソが幸せであれば、何だって良かったし、まさか、彼が私を妻にしようとしていることなど、思いもよらなかった。
ただ、そばに居てくれるだけで、良かったから。
けれど、しばらくして、アウトロッソは忙しくなった。
東国との戦況が芳しくないという。
そう教えてくれたイーエロも、少し疲れて見えた。
夜会の数も減った。戦争中だから当然だろうけれど、たまに見るアウトロッソの笑顔が少なくなってしまったことに、私も少し疲れていた。
だから、久しぶりの夜会だったけれど、アウトロッソは出席できないことにも、リーエが珍しくついてくることにも気にはならなかった。いや、リーエが夜会に出ないことを不思議に思っていたぐらいだったから、彼女が次の夜会に参加すると言ったときには喜びこそすれ、疑いなどしなかった。
私は、何も知らなかった。
夜会に私のお伴としてついてきたリーエは奇麗だった。
きっと誰よりも奇麗だった。
そんな彼女が、会場の隅で私に小さなナイフを持たせたことで、今まであった違和感の答えが一息に分かったときには、すでに何もかもが遅かった。
彼女は私の背中にナイフを突き付けながら、私にもナイフを無理矢理持たせて、足の悪い伯父さまの前まで連れてくると、ナイフを伯父さまに向けて私を突き飛ばした。
倒れる伯父さまに、私は叫ぶしかなかった。
「逃げて!」
床に倒れた伯父さまに怪我は無かった。けれど、次の瞬間、リーエが叫んだ。
「誰か! この女を捕まえて! この女が、公爵さまを…!」
その場に居た誰もが、私を疑心の目で注目した。
当然だった。
リーエは信頼されている女官長で、私は身分も持たない記憶喪失の女。
助けて、という言葉はその場で飲みこんだ。
誰も、助けてくれないことが分かったからだ。
遠くに居たイーエロと目が合ったけれど、彼は私から目を逸らせた。
まるで、見たくないものを見るように。
警邏中の騎士が床に座り込んだままの私を囲もうとする前に、リーエが私の傍らで少し立ち止まった。
「あなたなんか、誰も好きじゃなかったのよ」
皆が優しいと、思っていた。
けれど、それは隣にアウトロッソが居たからだ。
そのアウトロッソが居ない今、私は何も持たないただの女だった。
茫然とする私に騎士が縄をかけてそのまま牢へと連れ立って行く。
その間も私は、ただ願っていた。
アウトロッソ。
このまま私が死ぬことになる前に、あなたに会いたい。
あなただけだった。
私を、ただ見つめてくれていたのは。
だから、私もあなたを、いつのまにか好きになっていた。
どうか、お願い。
神様、お願い。
たった一目でいいの。
彼に会わせて。
そして、お別れを。
ごめんなさい。
あなたは、あの城で生きるには優しすぎる。
そして、私は誰より孤独なあなたをまた一人にする。
ごめんなさい。
私はもうそばにはいられない。
ごめんなさい。