思い出と記憶
べろん。
私は、生臭い何かに舐められて、気がついた。
べろん。
前にもこんなことあったような。
べろん。
分かった!
起きるから!
私はまどろみを無理矢理押し切って、目を開けた。
すると、
べろん。
また舐められた。
顔が酷いことになっているのは分かっていたが、今は一滴でも水が惜しい。
私は仕方なく生臭い何かを腕で拭った。
そして自分の目尻と鼻がやけにかぴかぴすることに気がついた。
全部まとめて拭ってから、ああ、とやけに落ち着いた気分で納得する。
泣いていたのか。
長い、夢を見ていた気がする。
項垂れた私は自分の不運さを改め嘆きながら、ぼんやりと夢とも記憶ともつかない思い出を反芻して、容赦なくお尻を焦がす砂の存在を確かめた。炎天下もお変わりなくー。
けれど、自分にあるはずのない妙な影があることに今更気がついて見上げると、
「ダイモン……?」
いつか、旅の途中で別れてしまった、優しい騎竜。
緑色ののっぺりとしたトカゲ顔で、私を心配そうに見ている大きな目も。ふかふかしてそうだけど硬い剛毛の背中も。
「ダイモン」
鼻の頭を撫でようとして、少し逃げられてしまった。
ダイモンなら逃げない。
そこで、私はこの子が少しだけ記憶よりも小さいことに気がついた。
緑色だが、顔形も、違う。ような気もする。
こんな暑い中に居るからか、少しだけ弱っているようにも見えた。
私は騎竜のことはあまり知らない。
東国ではそれを乗り物として調教していたが、西国でのメジャーな乗り物は馬だ。そして、辺境で暮らしていた私は見かけなかったが、魔力を動力とした車のようなものも乗り物としてあるらしい。けれど、騎竜はどうやら東国だけで使われているようだ。
それに、この子はまだ子供のようだ。
不安そうに、けれど警戒して私を見つめている。
「ねぇ、喉、乾いてない?」
革袋を開くと、水の匂いがしたらしい。小さなダイモンは鼻を近づけてきた。
「大人しくしてて。飲ませてあげるから」
私が一口革袋を飲んでみせると、安心したらしく、大人しく口を開けてくれた。
大きな口に水を流し込んでやる。
すると、やはり喉が渇いていたようで、あっという間に飲み干した。
「ねぇ、お父さんやお母さんはどうしたの? はぐれたの?」
水をあげたことで気を許してくれたらしい。私に首を撫でさせてくれた。
懐かしい。
ダイモンも、首を撫でられるのが好きだった。
辺りに、他に騎影はない。
はぐれたのだとしたら一匹にはしておけない。
そう思ったのは、私の方だったのかもしれないが。
一人は淋しい。
「一緒に探してあげる。だから、その間、私と居てくれないかな」
小さなダイモンは、少しだけ目を細めて、「クゥ」と鳴いた。
ああ。
きっと、ダイモンだ。
私は勝手に感謝した。
あの優しいダイモンだから、私を心配してまたこんな貧乏くじを引いて生まれ変わってきてくれたのだ。
でも大丈夫。今度は死なせない。
ありがとう。
小さなこの子の背に乗ることは出来なかったので、私は一人と一匹で砂漠を歩いた。
私が太陽の位置を確認してオアシスを見つけ、ダイモンは私に背中と影を貸してくれた。
一緒に水を飲んで、どうにか果物を見つけたが、それはほとんどダイモンに食べさせた。どう考えても私よりも大きなダイモンの方が体力も食べ物もたくさん要ると思ったからだ。
そうして、ダイモンと出会ってから、さらに三日が経った。
今日も炎天下の中を歩く。
水は、すでに尽きていた。
頭の中の地図でも、オアシスは、城塞都市までない。
それでも歩いていられるのは、ダイモンがそばで離れずに歩いてくれているからだ。
だが、私の方はすでに限界だった。
暑さのせいで朦朧とする頭の中で、足の痛みと体のあちこちに出来た小さな火傷が痛い痛いと大合唱している。砂を照り返す太陽の光も痛いような気がした。
とす、とす、とす、と私たちの足音が砂漠の海を渡り、それでも目的地は見えない。
これまでなのかもしれない。
私は歩みを止めた。
「ダイモン」
私のこの呼びかけに、小さなこの子は応えて足を止めてくれた。
私はまだ柔らかい背を撫でながら、無理矢理笑った。
「ここからは、私一人で行く。だから、あなたはその自慢の鼻でオアシスを見つけて、お父さん、お母さんを探して」
騎竜の鼻はいい。だから、水の匂いも嗅ぎ分けられるかもしれない。
「ここまで付きあってくれてありがとう」
ダイモンは、首をめぐらせて私をじっと見つめた。
意識はすでに一本の細い糸でしか繋がっていなかった。
ダイモンの大きな瞳に魅入られるように、私は自分の体がゆらゆらと揺れるのを感じて、抗いがたい眠気に誘われるように、切れていく意識を見つめていた。
熱射の降り注ぐなかで、私はまるで自分が蜃気楼になっていくかのような気分だった。
だめだ。
ちゃんと、この子をせめて見送ってから。
だが、うまくいかないのはどれも同じなのか、私は混沌の坩堝に呑みこまれた。
色々なことを思い出していた。
辛いことが多かったようにも思う。
手だって泥だらけで血まみれで、いつだって薄汚れていた。
心も体も存分に傷ついた。
それでも、とわがままな私は言う。
死ぬのは、嫌だ。
まだ何もしていない。
嫌だ。
嫌だ嫌だと子供のように駄々をこね続けていると、ふっと目の前が暗くなった。
そして、自分ではない誰かが囁く。
ごめんなさい。
なぜ、謝らなくちゃならない。
私が問うが、それでも囁く声はごめんなさいと繰り返した。
ごめんなさい。
どうして、そんな風に謝るの。
そんな、身を裂くような、悲しい声で。




