野原と青空
思う存分泣いてから、私は伯爵の執務室まで話をうかがいに行った。
伯爵は決済を処理しながら、実に簡潔に言った。
リーエさんが伯爵領に来るまであと三日ある。
それまでに、この先の身の振り方を決めるといい。
ということだった。
なお、この期間を過ぎても、私の選択は自由だと言われた。
伯爵って神様じゃなかろうな。変人だけど。
私は伯爵の執務室から出た足で、街へ行くことにした。
一応、西国のスタンダードスタイルであるスーツドレスに着替えていく。(屋敷の中じゃおばちゃんチャリムなんだよ)グレーのスーツと合わせた帽子を被れば、ただの背の高い迷い人になる。
ガリアさんがいつもならお伴についてきてくれるけど、今日は内緒で裏口から出ようとした。
今日だけは、ちょっと一人になりたいんだよ。
「あれ、お嬢さんお出かけですか?」
脱出、失敗。
心地よい庭を通りぬけて裏門から出ていこうとしたんだけど、庭に居座ってた働き者がいたらしい。
半ば諦めながら振り返ると、背の高い赤紫頭が出てきた。伯爵の使用人だからか仕立てのいいシャツにベストとズボン姿なんだけど、麦わら帽子だから笑える。彼は私の前に来ると帽子を脱いで、担いでいた剪定用のはさみとはしごを降ろした。
「ガリアさんはどうしたんですか? いくら伯爵の領地だからといっておひとりじゃ危ないですよ」
目の前に立っても圧迫感のない長身の彼は、年齢不詳の笑顔を浮かべる。
「……今日は一人で行きたいんですよ。タンザイトさん…」
髪と同じ赤紫の目で私を見下ろして、
「そんなつれないことをおっしゃっては、あなたに恋する者たちが泣きますよ」
どこの国にもこういうのはいるもんだ。ぱっと見は精悍で爽やかな美形なんだけどなぁ。
彼も伯爵の部下で、庭師の一人だ。
屋敷に帰ろうとはしない私を見て、タンザイトさんは肩を竦めた。
「仕方がありませんね」
彼は少しだけ息を吐いてから、爽やかな笑顔を浮かべる。
「愛らしいあなたの願いを叶えるのは、男の本望というものですからね」
よく回る口ってどうやって黙らせればいいんでしょうね。こっぱずかしいよ。
とりあえず今日の私にはタンザイトさんが着いてくることになりました。
なんだって、こう誰も彼も大事にしてくれるんだろ。
今までが今までなだけに、この先が怖い。
タンザイトさんが上着を取ってきてから、屋敷を出た。
西国には四季はない。
明確にあるのは夏と冬だけだ。なんでかっていうと、春と秋にあたる期間が東国と比べて非常に短いせいだ。だから、春に当たる期間は夏の初め、秋に当たる期間は冬の初めになる。
今は夏の初めから、本格的な夏に移るちょうど境目。
伯爵の屋敷は森を挟んだ(敷地なんだよ、森が)街の外れにある。
この屋敷に来た翌日に、ガリアさんから屋敷から見える野っぱらが領地の境界線だと教えてもらったから、伯爵の屋敷はまるで街を守るように建っている。
普通、伯爵のお屋敷とかって山の上とかに建ってるもんじゃないの?
質問したら、山はないと言われました。なるほど。
屋敷の周りの森は庭みたいな明るい森じゃないけれど、大自然をトレッキングしてきた私からするとちょうどいい散歩道にしか見えない。売り物にしている薬草は、この森から調達しています。
木漏れ日の小道を十分ほど歩いていけば、レンガ色の建物が見えてくる。街だ。
街のあちこちにある花壇では東国では見られない明るい色の花々が盛りだ。
レンガ色の建物は五階建てまである石の建築がほとんどで、まるでおとぎの国にでも来たみたいだ。……まぁ、異世界なんだけど。
私はいつものようにマーケティングをするでもなく、洒落た雑貨屋や商店街の大盛りにされた野菜を冷やかして、オープンカフェで屋台売りされてたソフトクリームに感動して(クリームを入れた缶を丸ごと氷で冷やしてるんだよ)街を通り抜けた。
街を抜けると、そこは端の見えないほど広大な牧草地になる。
草っぱらは丘になっていて、羊とヤギを掛け合わせたみたいな家畜がのんびりと飽きることなく草を食んでいる。
私は草の匂いを思いっきり嗅いで、大きく伸びをした。
一人ならきっと叫んでたな。
「ああ、寝転がりたい」
ガリアさんと一緒に来たことあるけど、彼女と一緒に寝転ぶわけにもいかないからね。……はっ! 今気付いたけど、お姉さんの膝枕とかアリじゃないかな。今度お願いしてみよう。断られても本望だ。
「あの木の根元でしたら良いですよ」
あっさり許可を出したのは、本日のお供のタンザイト氏。
この二時間ばかり散々連れまわされたというのに、不満一つ外に出さないとは。
「喉も乾いておられるでしょうから」
差し出されたのは、ビン入りのレモンジュース。(私が勝手にそう呼んでるだけで正式にはジャッロ。でもレモンと似た味がするのです)大人も子供も好きなこのジュースを紙袋からさっと取り出してくれる。
しかし君、ほんと幾つなんだ。私が二十四歳だと自己紹介してから、一度も年齢を教えてくれたことがないタンザイトさん。これは彼の気遣いなのか、それとも自己保身なのか。
疑惑と期待の入り混じったまま、私はタンザイトさんに誘われるまま草原に点々と立ってる大きな木の根元で座り込んだ。そこでタンザイトさんがそつのなさを発揮して自分の上着を敷物にしようとするから私は謹んで自分の持ってた大きめのハンカチを進呈した。ふはは。二枚もあるんだぞ!
ありがたく苦笑を頂戴しました。だって、草のシミなんか上着についたら弁償できないよ。ハンカチは自分で買ったやつだからいいんだよ。
大きな木の下はやっぱり涼しい。初夏とはいえ何の邪魔もない日差しを受けると少し暑い。あのアイスクリームは今度ガリアさんと挑戦しよう。ダンザイトさんは甘いもの好きじゃないしね。飴をあげたらニコニコと「お嬢さんの可愛らしい唇に食べられてこそ真価を発揮する食べ物ですよ」とか何とか恥ずかしいことを言われて突っ返されたことがある。甘いもの嫌いなら普通に言ってくれ。誰も怒らないから。
さわさわと通り抜けていく風が気持ち良くて帽子を脱ぐと、汗ばんでいた頬が冷たくなった。
久しぶりに流した自分の涙は熱かった。
ぶっちゃけ、私はこのまま過ごしている方が断然幸せだ。
何も無理してまで北国の謎と迷い人の疑問を解消しに行く必要があるかな。
でも、と理性とは反対の方から声がする。
このまま伯爵の跡取り娘として、私は漫然と暮らしていけるだろうか。
今までの生活がアクティブ過ぎたきらいもあるから、今の暮らしが平和すぎるということもあるんだろう。いや、いつからそんなトラブル大歓迎になったんだよ。トラブルいらない! 向こうからやってくるしね。
正直なところ、まだ心の中の整理なんかついてないんだろう。
この世界に来てから、こんな草原をぼんやり眺めていられたことなんかない。
まぁ、元の世界でもあくせく働いてばっかりだったから、子供時分に父に山登りに連れていかれた時以来だ。
あの時は、完全なインドア派の私が父のありがたみを理解するべくもなく、いやいや連れていかれた登山がどうしようもなく嫌だった。でも、頂上にたどり着いた瞬間はそんなことを忘れてしまったのを覚えている。
体が休憩したがっていたこともあるんだろうけど、見渡す限りの空と山の風景を、私は今でも思い出す。
お父さん、お母さん。
私が居なくなって、心配してるかな。
それとも、もう死んだと思っているのかな。
別に、両親が特別優しかったわけでもない。むしろ私より要領のいい弟を可愛がっていたようにも思う。いらない子なんて言われたことはない。それなりに可愛がられていたと思う。
親になったことはないから、私には両親の気持ちは分からないんだけれど。
草原の向こうの雲を眺めて、溜息をついた。
叶うなら、無事だと伝えたい。
そして、もしも、帰れるとしたら。
けれど、伯爵達を放り出して行ってしまってもいいのだろうか。
俊藍のこともある。
ふと、タンザイトさんをじっと見つめてみる。
彼は私の視線にすぐに気がついて、やんわりと微笑んだ。
「タンザイトさん」
「なんでしょう。お嬢さん」
二十四歳だと名乗りをあげたのに、彼はお嬢さん扱いをやめない。むしろ熱が入っているようにも思うのだが。もしやお嬢さん萌か?
「もしも私が、今ここから私を連れて逃げてって言ったら、逃げてくれますか?」
お嬢様と使用人が手に手を取って逃避行。どこかの三文ラブロマンスみたいだ。
しかし、この赤カブ色頭の庭師はにっこりと笑った。
「どこへ逃げましょうか? お嬢さん」
ホストだってここまで気の利いたこと、きっと言わないよ!
たっぷりと甘やかしてくれるお兄さんと、私は青空に響き渡るほど大声で笑った。