フェロモンと椅子
うわぁ、この世界は美形しか生きられないのか。
社長に付き添って入ってきたのは、濡れたような藍色の髪に、髪よりも濃い藍の瞳の男だ。社長と同じぐらいの長身痩躯でしなやかに歩く様子はまるで黒豹。私の視線に気付くと、世の女性が卒倒しそうな甘いマスクで艶然と微笑むのだから侮れない。
なんだ、あの歩くフェロモン。
フェロモン男を側に立たせて、社長は鷹揚に私の正面の椅子に座った。誰も勧めてないよ。
クリスさんはさも当然のようにワゴンに運んできたお酒をテーブルに並べるし。社長の前にも私と同じグラスですか。まぁ私の方が不審者だから良いけどさぁ。
「ご機嫌だね」
社長は、自分は仕事してきたのに、私だけ酔っ払いなのが気に入らないらしい。いや飲むぐらいしかやることないしね。
そういえば、
「北城社長は、お仕事だったんですか?」
会議がどうのとか言ってたなあの白い冷血仮面。
「北城でいい。―――そう。宰相に抜擢されてね」
異世界に流れ着いて一日目の異邦人がもう宰相か。大丈夫かこの国。
意外な表情が顔に出てたのか、宰相社長は昼間省いていた説明を続けるみたいだ。この酔っ払い相手に。
「俺の曾祖父が同じ役職だったらしい。……俺は、この世界の血筋らしいんだ」
社長はクリスさんかお酒を注いでもらって、一口なめた。予想外のアルコールに少し目を眇めてる。お酒は苦手?
「血筋で役職を決定するわけではないようだが、俺と親戚の本家がもう八十の爺さま一人になってしまったらしくてね。傍系も縁遠いから、俺が召喚される羽目になったらしい」
らしい、らしい、と続くのは、社長も本当は半信半疑なのだろう。でも曾祖父、ひいおじいさんが居たってことは確認してるみたいだ。やけに具体的な続柄出してきてるしね。
「この国は、戦続きの大陸の中で唯一中立を保っていた国らしいけれど、政治内部の腐敗が進んで危うい時期なんだそうだ。――ーまぁ、予算をざっと見ただけでも危ないことは充分わかった」
あーあーあー、そんな危ない話は聞きたくありません。お酒のせいにして忘れよう。
私は相槌を打たずにピンクのお酒をグラスに注いで一気にあおった。
なんだかクリスさんもフェロモン男も驚いたような気配がしたけど無視だ無視。
飲みながら「社長は大変ですねー」と言ってやると社長は微妙な顔をした。あんたの気持ちをおもんばかるほど人間出来てないもので。
「そういや、どうしてこの世界に自分だけが来たんじゃないって分かったんですか?」
いくら社長が元凶でも、私がこうして寝床にも食糧にも事欠かず、ぐだぐだと美味しいタダ酒を飲めるのは社長のお陰だ。
「召喚を行った技術者たちが、どうももう一人喚んだみたいだと言って、召喚したときに現れるらしいエネルギーの元を辿っていたら、君を見つけた」
「それはわざわざありがとうございます」
まぁ社長に見つからなければ、今頃あの怪しい黒マントの世話になっていただろう。あの黒マントの言うことを信じるのなら、きっとこの要塞にも近づかず、うまくすれば仕事を見つけられたかもしれない。
「……どうしてそう、君は俺に反抗的なんだ?」
社長は私を睨むように切れ長の目を細めた。
反抗しない方がおかしくないか? 人として。
「俺の召喚に巻き込まれたかたちでこちらの世界に飛ばされたことは同情しよう。だからといって、俺と君のどこが違うんだ? 俺だって元の世界では会社も、家族も、婚約者も居た。離れ離れになったのは同じじゃないのか?」
うっわ婚約者までいるんだ。さすが坊ちゃん。
「それって、自分だって被害者だから自分は悪くないってことですか?」
酒を手酌で飲みながら、社長を見遣ると彼は少し目を見開いた。意外な発想だって顔ですね。これから大丈夫かこのひと。
「私は、バイトもしないと一人暮らしもままならない派遣社員で、同僚にも運勢にも見放されてる、ただの運の悪い女ですけれどね」
だからって、
「だけど、両親は元気だし、弟はたまに優しいし、友達だっていて、それなりの暮らしをしてました」
だから、
「でも、もう、あの世界に帰っても、この世界に居ても、私はすぐ死んじゃうかもしれないんですよ」
たとえ帰れたとしても、死んでしまうかもしれない。
そして、この世界に居ても、宰相が同じ世界の出身でも、何のしがらみもない私は、いつ死んでもおかしくない。
異邦人の私を保護する義理は誰にもない。
殺されても、おかしくはないのだ。
こんなことってあるのだろうか。
誰からも、何からも、必要とされないなんて。
生きるには、自分が頼りだというのに自分自身すら役立たずで。
運が悪すぎるにもほどがある。
ああ、駄目だ。
飲みすぎた。
明日はきっと良い日になると信じていたい。
そうやって今までもやってきたんだから。
全部明日だ明日!
何杯目かわからない酒杯を飲みほして、私は意識を手放した。