偽りと可能性
「世界の大則には異世界に関する条項はない。これだけ、少ないとはいえ迷い人の存在が無視できない数に達しているというのにね。だから、私の父は、もしかしたら北国には迷い人が多く住んでいるのではないかと考えた。北国は他国との交流をほとんど持たないが、一切ないというわけではない。ギルドや他の魔法器具は彼らがもたらしたものだ。それに君は、彼らの道具を見て元の世界を思い起こされるようなことは無かったかね?」
そう伯爵に問われて私は自分の記憶を掘り起こした。
銀行みたいなギルド、お金の入る木札のおさいふケータイ、リアルタイムに会話のできるテレビ電話、魔力を電気みたいに使う魔女の家。
あれがもし、元の世界の技術と発想なら。
「我々の世界は戦争の歴史だ。文明が育つほど長い歴史を持たない。今は四つの国に別たれているが、以前は百を超える国が乱立して戦争を繰り返していたという。それを大則が四つに切り離し、今の国の形となった。だから、世界の法則を変えるかもしれない迷い人の存在を北国が知らないはずはないし、条項に無いのはおかしい。だから、父は自分の仮説を証明するために試しに何人か有志を募って人を送り出してみた。そうしたら、そのうちの五人が元の世界に帰るという手紙を寄越したきり、伯爵領に帰ってこなかった。残りは帰ってきたがね」
淡々と続ける伯爵を私はじっと見つめた。
伯爵はあまり私に嘘をつかない。伯爵が私に話していないことはたくさんあるとは思うけど、それは聞かれてないから答えてないだけだ。
伯爵のお父さんが、というのはかなり信憑性のある話だ。だって、伯爵自身もそれを目の当たりにしているはずだからだ。
質問をしない私を横目に、伯爵は「けれどね」と続けた。
「帰ってきた人々の証言を元に、父は北国へ正式に書簡を出した。迷い人達を帰すことができるのなら、その詳細を知りたい。そしてそれが可能なら、希望者を無事に送り届けたい。その話し合いを持ちたいとね。だが、北国の返答は、否だった」
伯爵はすでに中身のないカップを眺めた。すかさずガリアさんがお茶を注ごうとしたけれど、それを断ってカップのふちをぴったりとした白の手袋の指でなぞる。
「父はその回答に再度、書簡を出したが答えは同じ。―――それが二十年ほど前の話だ」
「理由は」
私は思わず口に出た言葉を続けられなかった。けれど、伯爵はそれを拾いあげて、
「理由についての返答は無かった。北国へ行った者の話では、北国の関所で迷い人か否かを問われ、そのまま役所に連れていかれたらしい。そして、生活を保障するから元の世界に帰るか、この世界に残るか選べと一週間ほど面倒をみてくれたそうだ。ただし、このことを国外へ洩らすことはしてはならないと念書を書かされたらしい」
それだけのことをしておきながら、否と言った理由は分からない。伯爵のお父さんもきっとそう思っただろう。念書にしたって、どこで噂が広がるのか分かったものじゃないはずだ。
けれど、現に社長はもう帰れないと断言した。
社長が嘘を言った可能性も否定はできないけれど、社長が私にそんな嘘をつく理由がない。だって、社長は私を嫌っていたし、帰せるものならとっとと帰していただろうからね。気に喰わない相手を気遣う余裕は社長にはないよ。
「二十年も前のことだ。けれど、元の世界に帰れる可能性はある」
伯爵はカップから視線を上げて静かに私を見た。
「私は君に選択を委ねるよ」
不思議と、突き放されたようにも思えなかった。
伯爵の淡い緑の眼は凪いでいて動かない。けれど、この人に頼ってもいいんだと思わせる強い安心感があった。
君の味方だ。
力強く伯爵の眼が私に語りかけてくる。
騙されているのかもしれない。
偽りなのかもしれない。
でも、私は伯爵のことを断片的ながらに知っている。
この人は厳しくて優しい人だ。
私を蔑すまず、血の通った人として見てくれる。
ガリアさんを見た。
一番お世話になっているから思わず甘えてしまう癖がある。
彼女はいつものように私に微笑みかけて、いつのまにか冷めていたお茶を取り換えてくれた。
ガリアさんは伯爵が許さない限り、私に話しかけない。
けれど、彼女も伯爵と同じ眼をしていた。
やばい。
泣きそう。
私は思わず下を向いて、唇を噛んだ。
この世界に来てから、こんなに私を信じてくれた人たちが居ただろうか。
俊藍でさえ、私を自分の片割れとしか見ていなくて、本当のところ私を人として見ていたか怪しい。彼にとって私は自分の味方で、女で、誰よりも魂が近いというだけだ。それは私の本質ではあるけれど、私ではない。私は、外面も内面も、体も心もひっくるめて私なのだから。
それが、会って間もない人たちが、私を信じてくれている。
嘘でもいい。騙すつもりでもいい。
私はこの事実がどうしようもなく嬉しかった。
辛うじて涙をこらえているのに、それが分かっているのか分かっていないのか、伯爵の声は変わらない。
「別に君を追い出そうというわけじゃないよ。個人的にはここに住んでいてもらっていいと思っている」
えっと顔を上げて、騙されたと思った。
伯爵が面白がるように笑っている。
「あいにくと私には子供がいなくてね。君を養子に迎えたい」
伯爵はゆったりと椅子に座り直すと、少しだけ目を伏せた。
「私の妻は病弱でね。十年ほど前に私を置いて逝ってしまった。彼女は私に領地以外何も残してくれなくてね。領内から孤児を召し上げて養子にでもしようかと思っていたんだが、そんなところに君が来た」
私はといえば、王様と弟たちに捨てられそうになっている。
純粋に助けてくれるつもりじゃなかったとはいえ、私は寝耳に水だ。
伯爵が、パパ……?
私は伯爵の入れ墨の顔を見つめた。
鷲鼻のものすごい精悍で超素敵な紳士パパだ。
きっと私、すごい自慢するよ。こんなパパ。
「部下たちにも相談してみたが、皆、君を気に入っていてね。反対は無かったよ。年の近い親子になるが、私には君のような娘がいいと思ってね。ゆくゆくは伯爵の位を譲るからそれなりの教育をしていくつもりだったが……」
珍しく伯爵が言葉を切った。
伯爵はどこまでも賢明だ。
だって、私は嗚咽が酷くて話を聞ける状態じゃなかったから。