塔と自由
「待て」
伯爵閣下に着いていくことを決めた私の背中に声を投げたのは驚いたことに、
「なぜ、あなたが彼女を自由にできる権利があるというのですか?」
置いてきぼりにされていた兄弟だった。
けれど、冷静に彼らを観察してみると、二人には決定的な違いがあった。
兄は不安なのか何なのか、自分でもよく分からないんだろうことに黄金色の瞳が感情に揺れている。でも、金髪の美しい弟は、その瞳に不安はない。
彼は考えている。何が良くて、何が悪いのか。
奇麗なものだ。
だから、私は笑ってやることにした。
お腹は空いてるし、色んなことが重なってへとへとだけれど、無理矢理唇を引き上げる。
「アンタに私を自由にする権利はありませんよ」
兄は傷ついた顔をしたけど、今度は弟が鼻白む。
コイツ、社長と同じ人種だ。
従順な人間だけが好きなやつ。
「では、あなたの意見を伺いましょう」
伯爵は面白がるように私の隣で見下ろしてくる。
「あなたに着いていきます」
まるで貞淑な奥さまみたいな答えだな…。
伯爵は「よろしい」というように私の手をとって、まるで淑女を扱うように手を引く。
「あ、このドレス」
そういや私、借り物ドレスを着たままだ。真っ赤なドレスなんて売っぱらうぐらいしか思いつかない。
「脱いでいきましょうか?」
マントもあることだし。
チャックは後ろか。
「着て行け!」
背中に手を伸ばそうとした私に向かって、偉そうに言ったのは赤髪の王様。
きっと。
きっと、彼に拾われたならネロは幸せだっただろう。
「ありがとうございます」
今度はちゃんとお礼を言って、私は伯爵の後をついて部屋を出た。
これで一か月分のことがチャラになるとは思わないけれど、今の私にできることはこれぐらいしかない。
先の見えない廊下を歩きながら羽織ったままのマントの端を掴んだら、伯爵が見下ろしてくるのが分かった。
泣かないですよ。
そんなに感傷的な性分じゃない。
記憶の外の人たちを、私は振り返らなかった。
でも、たった数時間の付き合いでこれだけ淋しいと思うのだから、ネロの気持ちの欠片が私の中に残っているのは確かだった。
幸いにも、伯爵はそんな私に何も尋ねて来なかった。
ただ、ひたすら長い廊下を私を黙ってエスコートして、行きついたのは城の端にある塔だった。
何の変哲もない、けれど広くも狭くもない塔の中。
その部屋の真ん中にに立って伯爵は私と共に立つと、杖でトンと床を突く。
杖の反響が塔の上まで登り上がって―――…何も起きない。
伯爵はちょっと黙ってから、私を見遣った。
「―――本当に、私に着いて行きますか?」
静かな声だった。
だから、それが単純に自分に着いて行くか行かないかを尋ねているようにも思えなかった。
それは、生きるのか死ぬのかを問われているような。
この世界に来てから、命の選択ばっかりだ。
私は当然のように答えた。
「いきます」
コローラル伯爵は私の目を見て、少しだけ、ほんの少しだけ笑った。
だから、私の答えが合格だったのか、不正解だったのかはわからなかった。
「では、お手を」
上等そうなフロッックコートの腕を差し出されたので、私は怖々と指をかける。
やめてよねー。そういや私、地下牢から出されてから手、洗ってないんだから。
私の指の感触を確かめたのか、入れ墨の伯爵はさっきと同じように杖で床を突いた。
すると、さっきとは違って床に電気が走ったみたいな紋様が一瞬のうちに浮かび上がる。
そして、そのまま私の目の前が真っ白になって、塔の景色は消えた。
「―――目を開けてください」
いつの間にかコートを握りこんでいた手をゆっくりと外されて、私はおずおずと目を開けると、
「―――ここ、何処ですか?」
一面、お花畑でした。
温かい日差し、淡い緑の木々、手入れの行き届いた花壇には色とりどりの花々。
小鳥がさえずり、庭木のアーチの向こうには、青い屋根のこぢんまりとしたお屋敷が。
私が立っているのは、ストーンサークルもどきの一枚石の上だ。さわさわと風に雑木林が鳴って、昼寝だってしたくなる。
伯爵はさぁと言うように私を丁寧にエスコートしてくれる。
「ようこそ。我が屋敷へ」
無表情な伯爵の腹は読めないけれど、さっきまでのやりとり見てる限りでも分かるほどきっと腹黒なんだろうけど、少なくとも今すぐ私をどうにかしてやろうなんて意思は見えない。
―――もらわれるなら、最初からこんなところが良かったです。
私は心の中でひっそりと涙した。