同情と憐憫
私は顔を上げなかった。けれど、ずばりとした声は確信めいている。
「お前の名前。それは、そこのリーエと同じ響きだ。そして、リーエの名前を正しく発音できた」
兄の口調は迷いがない。これが持てる者ってやつか。
「迷い人に関しては、王族と魔術師どもしか知らない事柄だ。俺に拾われたことを運良く思うのだな。―――もっとも、俺より前の飼い主が居るようだが?」
私は野良犬か。視線だけ上げると、兄は王様の威厳で少し笑う。
「お前の出自などどうでもいい。俺が知りたいのは、そのマントのことだ。―――お前は、そのマントを何処で手に入れた。言え」
いっそ、かっぱらったとでも言おうか。
素直に話して信じるとも思えない。けれど、何故か、この王様は私の話を信じるような気もした。
これが、ネロという女として生きた名残りなのか。
私は何を話していいのか分からなくなってしまった。
この男は私が戦場に無防備に居たことを知っている。それが不自然だということぐらい、私にも分かる。こうして、城に連れ帰って自ら監視しようとするほどには。
そして、この王様が、きっと誰も信じていないんだろうということも。
信じる部下が居るなら、私なんかを自分で引き取ったりしない。
信じられる部下が居るのなら、私が政治的なことに巻き込まれたりなんかしない。
この人も、孤独だ。
どうして出会ったばかりの人にこんなことを思うのか分からない。
私の中のネロが叫んでいるようだった。
この人を裏切らないで!
裏切るも何も、私はこの男を知らない。
「―――本当のことを話せば、信じてくれるんですか?」
きっと、彼は信じるだろうと思った。
一か月もの間で、ネロという女を愛したのなら。
「話による」
「それは、あなたの正否にかかっているということですよね? それは、信じないということもありうるということではないのですか?」
私の言い口が気に入らなかったんだろう。王様はかっと顔をしかめた。
「お前が大人しく全てを話せば、俺が大事に飼ってやる!」
飼うってなんだ。
不審な顔をしたんだろう。王様は鼻を鳴らして笑う。
「お前の前の飼い主はそんなことも教えなかったのか?」
嫌な予感がして、私は耳を塞ぎたくなった。けれど、王様の声の方が早い。
「異世界から落ちてきた迷い人はな、この世界では一切、年をとらなくなる。そこのリーエは、すでに三十年、城に仕えている」
何。
思わず理恵さんを振り返ると、柳眉を少ししかめていた。
「不老だけであって不死ではない。単純に、落ちてきた年齢から年をとらなくなる。体は成長せず、ただ代謝だけを繰り返す」
代謝だけを繰り返す。
それを、確認した作業が、過去にあったのだ。
背筋に汗が伝う。
記憶よりも少しだけ伸びた自分の髪が、恐ろしく感じた。
「不老のものを市井に出せば、混乱を招くだけだからな。我が国ではこれらを奴隷として王城で仕えさせている」
聞きなれない単語に、私は再び赤髪の王に向き合う。
「お前たちの世界では奴隷はいないのか?」
いた。過去の負の遺産として扱われている。忌むべきことだ。
けれど、世の中全部がみな平等なんてご高説垂れるつもりはない。
いつだって世の中は不平等で、理不尽で不幸なんか満ち満ちてる。
身分としての奴隷がなくなって、今度は誰もが奴隷になる瞬間を与えられたとも言える。
誰もが王様、女王様になれるわけじゃないんだから、誰かが仕えることにはなる。社長みたいに人に崇められて当然だとか思ってるやつもいる。
でも、
「普通、なりたい人はいません」
奴隷になるのが好きなのは、よっぽどのドエムだけだ。
私の顔をじっくりと眺めて、赤髪の王様は皮肉げに笑う。
「ならば、話さなくてもいい。お前は早刻、好事家の奴隷商人にでも売りつけてやる」
隣の弟が非難めいた視線を投げるけど、兄は涼しい顔だ。
本気だな。こいつ。
私が慎重に赤髪を睨むと、ふいに黄金色の目を逸らされた。
「―――そのマントの持ち主はな、敵国の王だ」
先ほどまでの強い口調とはうって変わって、ぽつりと語り出したので私はそのまま黙りこむ。
この男、俊藍を知っているんだ。
「東国の王、ヘイキリング王が今は亡き父王から賜ったもので、奴は式典の時にはいつもそれを身につけていた」
大事な、本当に大事なものだったんだ。
私は俊藍の心の支えまでもらってしまったのか。
「ところが、三年ほど前に突如として姿を消した。それからだ。西国との国境にあの呪われた女神共が現れるようになったのは」
美しい炎の妖精たち。
彼女たちに自我はない。
私は自分の考えに吐き気を覚えた。
だって、誰を憎んでいいのかわからない。
「自国の民を傷つけられて黙っているわけにはいかない。だから、戦が始まった。―――犠牲も大きかったがな」
赤髪はゆっくりとその黄金の瞳に私を映す。
整った顔立ちは、弟と違って荒々しい。俊藍とはまた違う威圧感のある男だ。
「この世界には大則というものがある。それに従えば、諸国の王は五年に一度、北に集まり、そして国と国の境を犯してはならない。笑えるだろう? 戦争をしてはならないという決まりはない。国と国の間にはある一定の領土があって、そこを争って外交戦から大戦まで多種多様な戦争が行われている」
それは、まるで永遠に戦争をさせるかのような。
顔を歪めた私を、西国の王は諭すように眺める。
「だから俺は北の番人どもが定めた大則とやらを破ることにした。先に破ったのは東国だがな。だが、あの国が北に歯向かう様子はない。それでは、俺の国はどうなる?」
だから、戦争をすると。
「―――理解できないという顔だな」
話についていけないか、ということを問うているのではなさそうだ。
けれど、私にはわからない。
「わかりません」
どうして戦争をしなくてはならないのか。
「どうして、国を傷つけるような真似をしたのか訊いたんですか?」
「解答はなかった。使者が殺されたからな」
わからない。私は俊藍がどうして王様業から逃げなくてはならなかったのかを知っている。あの呪いがあったからだ。そして、恐らくそれは俊藍の臣下の誰かがやったんだろうということも分かる。彼は命を狙われ続けている。そんな中で、社長が召喚された。関係のない私まで殺そうとするほどのことが、今、あの国で起きている。
でも、そんなことが今更わかったところで、この目の前の人に言うわけにはいかない。
何も知らない私が言えることなんて限られている。
「―――私が知っているのは、あの戦場でたくさんの人が死んだってことだけです」
おかしい。
何かが狂ってる。
「私にはわかりません。異世界から来たってだけで奴隷扱いされることも、最初に傷つけられた人たちの何倍もの人を戦場に向かわせることも」
どうして、アンジェさん達が、あんな死に方をしなくてはならなかったのかも。
「お前に何がわかる!」
部屋中を揺らすような大声で、私を遮ったのは赤髪の王様だった。
「自国の民を殺されておめおめと引き下がれと? 北の番人どもはこの不条理にすら揃って口を閉ざしたのだぞ! 俺は…っ」
「そんなのアンタの自己満足でしかないでしょう?」
血を吐くように叫ぶ王様を私は睨んだ。
一瞬、怯んだ顔をしたけど、今度は本気で顔に血をのぼらせている。
なんで、私が起きぬけにこんな国家機密なんかを話されて王様と討論会しなくちゃならないんだ!
私も頭に血がのぼっていた。
「自分の国の人が理不尽に殺されれば、そりゃ誰だって腹立つわよ! でもね、その倍の人数けしかけて戦争したいなんて思うのは、馬鹿か子供だけなのよ!」
「ば…っ お前、そんな言葉をどこで…!」
顔をしかめた王様がはっと眉を跳ね上げる。
「知ったこっちゃないわよ! 私は一か月間の記憶がないんですからね!」
私にわかるのは、
「私は、この世界に来て初めて出来た家族をあんたに殺されて、わけも分からずアンタに奴隷商人とやらに売り払われようとしてるってことだけしか分からない!」
自分が馬鹿だということだけだ。
案の定、目の前の人は腰の剣に手をかけた。
どうして私のことが分からないと嘆くのか分からない。
私は、あなたに自分の言葉が通じないことに嘆いているのに。
胸の奥が痛い。
ああ、ネロは、この赤い髪の孤独な人が本当に、好きだったんだ。
とどめようとする人たちを薙ぎ払って、剣を抜いた人が泣いている。
私は、あの人の味方になろうと決めた。
決めたけれど、もう、誰を信じていいのか分からない。
剣先が私の喉元を貫く―――…
「―――おや、お取り込み中でしたか」
場違いな声が部屋にするりと舞い込んだ。