空白と余白
戦場で意識を失った謎の黒髪の女。
その場に放っておくこともできずに、アウトロッソは彼女を城へと連れ帰った。
彼女の身元を明かすものは、たった一つの外套だけ。
それは東国の国王が身につけていたものだ。
彼女が何者か分からない以上、彼女にひどい扱いもできない。だから、彼女と同じ黒髪のメイドをつけて介抱させた。
しかし、彼女が次に目覚めたときには、己が何者かすら忘れていた。
医師の診断では強い精神的な衝撃を受けたことが原因で、いわば心を閉ざしてしまった状態になってしまっているという。
思い返せば、彼女はあの火の海と化した戦場で、必死にあの死の女神共を庇っていた。きっと、彼女の顔見知りがあの女神に堕とされたのだろう。
アウトロッソは黒髪の彼女をネロと名付けることにした。
彼女、ネロはアウトロッソによく懐いた。
始めは戸惑っていたアウトロッソだったが、次第にこまめに彼女の様子を伺いに行くようになった。
ネロは、言動は子供そのものだが、その天真爛漫なさまの中に一瞬だけ少女の機微が混じる。他人の心に敏感で、思いもよらない優しさを持つ。
王とは孤独だ。
そんな彼に何も言わずに寄り添ってくれる気まぐれなネロは、彼の心を癒した。
しかし、彼女は彼だけの心を癒していたのではなかった。
ネロの教育係を買って出た弟のイーエロも、時がたつにつれ彼女に惹かれていった。
王族には珍しく仲の良かった兄弟だったが、二人が愛したのは同じ女。
兄と弟は、生まれて初めての憎しみと嫉妬を向け合うことになってしまった―――…。
その愛憎渦巻く兄弟ゲンカの間に入ってしまった憐れな女が、わたくし、本名、君島葉子。
な。
なんて…っ!
なんてドラマチックで面白いことになってるんですか――――っっっっっ!!!!!
私はぽかんと開いた自分の口からまずい言葉が出ないように慌てて手の平でフタをした。
いやだって。
とってもお気の毒な話なんだけど、次の瞬間、ベタ過ぎて爆笑しそうで。
それで、なんで愛され娘(私)がこんな牢屋に居るのかというと、なんだか政変だか政敵? だかに騙されて陛下を殺そうとしたとかで? 陛下がいない間にここにぶち込まれたんだそうです。……ふっ…いや、ごめんなさい。お腹がよじれそう。
思わぬツボに入ってしまった小刻みに震える私を、鉄格子越しだし、ちょっと遠い理恵さんはまた良いように解釈してくれたらしい。
「ご安心ください。あなたの記憶が戻ったとしても、陛下はあなたを愛しています」
いや、それはないな。
だって、ネロだっけ。その娘 (もう娘と言わざるをえない) だった時の記憶なんて一片もないし。
今、私の中にあるのは、あんまり良い感情じゃない。
いや、ちょっと待て。
私ってば、子供の頃からリアルに夢だったことに直面してないか?
白馬に乗った王子様がいつか迎えにきてくれるのー!
ていうのね!
いやいやいやいや! 待て! じゃ、何ですか。私、記憶戻らきゃ、夢にまで見たドラマチック過ぎる結婚が叶ってたかもしれないってこと!
ぎゃあああああああ何てことだっっ!! 私の馬鹿ばかバカ!! 間抜け!
このまま記憶無くしてりゃあ、一生左ウチワで暮らしてたかもしんないのに!
まぁ、こんな沸騰したみたいな恋、いつか醒めるし、旦那の愛も私の愛も一生続くはずもない。それに結婚してから、こんな風に記憶が戻ってみなさいな? どう取り繕ったって、私にしてみたら、あの赤髪を愛せるはずもない。
間一髪セーフってところか。
甘い豪華生活は捨てがたいが、冷や汗ものだったな。
―――うーん、やっぱり私ってば打算でしか結婚できないタチなのかな。結構、夢見てると思うんだけど。
自分の結婚観を疑い出したところで、また牢屋に足音が響いた。
今度は重い靴音だ。
「―――無事か」
おいおい。なんて顔してるの。
鉄格子の向こうで現れたのは、赤髪の長身だった。いつかの甲冑姿ではなく、シャツにズボンにベルトていうラフな格好だ。けれど、このままマントでも羽織れば、いつでも玉座につけるような威風堂々とした姿だ。
けれど、以前見たような人を射抜くような金の瞳には、あってはならない愛情の光。
まるで、世界で一番愛おしいものを見つけた時のような顔で私を見つめる。
カンベンしてください。
「あんた、誰?」
美形の顔がひきつって固まる瞬間を初めて見ましたよ。
いや、いーもん見た。