にわか生徒の一日目(前)
「目が覚めたかい?」
そう言って、私の額に細い指先を当てたのは、私が眠るまで側に居てくれた赤髪の美女だった。
名前を、確かアンジェさんと言っただろうか。
彼女は私が自分のことを確認したことがわかると、ベッドの脇に持ってきていたお盆の上で、お茶を入れた。
「起き上がれるかい? こっちに顔を洗う水を張っているからね。顔を洗うといいよ。トイレに行きたいなら私が連れてってあげるから」
起きぬけに優しい言葉をかけられて、彼女を本当に信用してはいけないという昨日の決意が揺らぐ。だって美女の優しいお言葉ってそれだけで価値があるじゃない。有害銀髪が今日はいないだけマシだ。
「……ありがとうございます」
お礼を言って身支度を手伝ってもらった。
何日寝ていたのかしらないけど、体の節々がぎしぎしする。
身支度を整えてから、またベッドに戻るよう促されると、ひざの上に朝食と思しき皿の並んだお盆を乗せられた。
「昨日と同じようなもの用意したよ。昨日もちゃんと食べてたけれど、急に普通の食事にするとお腹が驚くからね。ゆっくり食べな」
昨日用意してもらったのと同じお粥はやっぱり美味しかった。
温かくて、こごった心までほぐしてくれるようだ。
私の顔が緩んだのを見たのか、アンジェさんはベッドの脇に椅子を持ってきて優しく微笑んだ。
「食べながら聞いとくれ。―――昨日話したことは覚えてるかい?」
確か、私はここで暮らすことになったらしいのだ。この部屋がどこでどんな場所なのかは知らないが。
私がうなずくと、アンジェさんは続けた。
「まず、私の自己紹介しておこうかね。昨日言ったかもしれないが、私はアンジェ。年は二十五だ」
悩ましい泣きぼくろの美女が一つ違いなんですね。
恐ろしいぜ異世界。…いやこの場合は私がごめんなさいというべきか。
申し訳ない気分で私も自己紹介しておくことにした。
「葉子です。……年は二十四です」
ほら! ほらぁ! やっぱりこの美女も驚いた顔した!
美女は好きだが、嫌いだ異世界!
「てっきり十七、八かと思ってたよ。いや悪かったね」
アンジェさんは目を丸くしたまま意外そうに言う。
サバサバした口調で言われるとそれほど傷つかないけど…年相応になりたい。
アンジェさんはこの場所、お屋敷について話してくれた。
ここは森の真ん中に建っていて、世話役と住人四十人ほどが暮らしているという。住人と世話役の違いはよくわからなかったけど、私はここで言う住人になるのだろう。何かしらの役割を持っている世話役と違って、住人に仕事はない。生活のための家事や雑事はそれぞれが当番制で、他に勉強会なんかもあるという。
なんだか寄宿制の学校みたいなおもむきだけど、アンジェさんの年で学校っていうのはこの世界ではあんまり想像できない。
たいていの少年少女たちはある一定の年齢を越えたら十代から働き始めるのが一般的だ。ハタチ越えたらその十代の子たちの面倒を見る側になっている。
けれど、ここでは二十歳を超えている住人も何人も居るらしい。
住人が守らなくてはならないのは、この屋敷から出ていかないこと。
朝食を食べ終わる頃には、私はここが常識から少し外れた奇妙な場所だということを理解した。
「動けるようなら、屋敷の中を案内するよ」
美女が快くそう言ってくれたので、私はお願いすることにした。
いつのまにか着せられていたすとんとしたワンピースの寝巻きから、渡された藍色のチャリムを着ると、アンジェさんはちょっと唸った。
「やっぱり丈が足りないね。ちゃんとした服は今夜にでも持ってきてあげるよ」
異世界でも背が高いって損だ。そのくせ出るとこも出てないから棒っきれみたいだ。チャリムにパンツ姿だからアンジェさんと並ぶと小間使いの少年に見える。
部屋を出ると、やっぱりどこかの寮にでも来たかのような印象だった。
廊下には見渡す限りに同じようなドアが並んでいるんだけど、宿屋みたいによそよそしい感じがしない。
「あら。見かけない子ね」
アンジェさんと私を見つけて、華やかに微笑んだのは紫の髪の美女だった。すらりとした体を包むチャリムは地味だけど、彼女専用に仕立てたのかのように美しい。
「ちょうど良かった。セレット」
アンジェさんは私を美女の前に差し出して、
「この子はヨウコ。新しい住人だよ。ヨウコ、この子はセレット。私の隣の部屋なんだよ」
あとで私の部屋も教えるからね、とアンジェさんは言って、セレットさんを見やる。すると紫の美女は穏やかに微笑んで、その艶やかな唇の端を上げた。
「よろしくね。ヨウコ」
あとで知ったんだけど、このセレットさんも私より年下でした。ホントごめんなさい。
「セレット、これから勉強会に行くのかい?」
「ええ」
アンジェさんに応えながら、セレットさんは自分の手の教科書らしき本と和綴じのノートをちょっと掲げた。
「遅れるとバーリムがうるさいから、早めに行こうと思って」
「あいつはそういうことにうるさいからねぇ」
そうアンジェさんは笑って、私に顔を向ける。
「バーリムというのはね、ここで教師みたいなのやってるやつのことだよ。案内がてら見に行ってみるかい?」
こんな美女が行く勉強会とやらがどんなお勉強やってるのか見てみたい。
私は美女二人にくっついて勉強会が開かれるという、屋敷の二階まで降りた。
私が寝かされていた部屋は四階で、それが最上階なんだけど、このお屋敷の広いことと言ったら。四階、三階は似たようなドアがずらっと並んでいて居住区らしくて、二階には似たようなドアと観音開きのドアが幾つか並んでいる。ここが教室というわけなんだろう。
二人に連れられて、その一角に入るとすでに何人かの女の子が、黒板囲んで大学の大講義室みたいに半円に並べられた机に、思い思いに陣取っている。机の数はざっと三十ぐらい。
まだ早いぐらいの時間だったのか、セレットさんとアンジェさんに囲まれて窓際の後ろ側に三人で席についた。
「ヨウコは可愛いわね。いくつなの?」
初対面の人との話題なんて限られてる。
案の定、セレットさんにも驚かれました。もう女子高生って名乗ろうかな。
そんな雑談しているうちに生徒と思しき女の子がばらばらとやってくる。けれどみんな女の子ばかりだ。男子生徒は一人もいない。そして、美女二人よりも年上(私を除く)の女の子もいなかった。
彼女たちの最後に教室に入ってきたのは、背の高い眼鏡の美形だった。
何冊かの本を小脇に抱えて、いかにも穏やかそうに微笑んで一見地味な良い教師風。けれど、遠目にも彼の目鼻立ちが整っているのはよく分かる。社長やら俊藍のおかげでいい加減美形に見慣れてきたけれど、彼の造形美は一、二を争う。
あー、だから女の子ばっかりなのか。
挨拶もそこそこに教卓の前で授業を始めた美形教師は、当然なのか声も抜群にいい。低めの声が教室の端にまでよく透る。
「ではこのあいだの課題の答え合わせからやりましょう。ポーラ」
流れるように当てられた少女は、美形も目に入らないかのようにしゃちこばっておずおずと席を立つ。
「答えてみてください。一週間前に講義した二つの薬草の違いについて」
「―――…りません」
小さな声だったので、私の座っているところまで聞こえなかった。けれど、教卓には近いからあの美形教師が聞こえなかったはずはない。でも、
「今、何と?」
教師はにこにこと聞き返す。
ポーラと呼ばれた女の子は肩を震わせて、それでも答えた。
「……わかりません」
きっと課題とやらをちゃんとやらなかったんだろう。つーか、単純な一問一答ならまだしも二つの薬草の違いを答えろとかかなり難しい課題を出してるもんだ。
女の子のか細い声は静まり返った教室に響いた。十五、六人は同じような女の子がいるけれど、彼女たちも一様に口をつぐんでいる。
教師は教卓の上に広げた本を見、それから少女を見返す。
「では一緒に考えましょう。百三十二ページを開いて。前回のおさらいから―――」
とうとうと課題の復習をやりはじめた教師は、まるで課題を忘れた彼女とマンツーマンで授業を進めるかのように彼女が分からないと言った薬草について違いを一つ一つ訊ねていく。立たせたままで。
彼女がわからないと言えば、どうしてわからないのかを問う。
セレットさんに教科書を見せてもらいながら、うんざりした。
なんつードエス教師。
いまどきの教師も見習えばいいよ。でも普通の人にはできないな。
だって、あの子もう泣いてるし。でも質問は止まらない。
穏やかに質問繰り返してるだけなんだけど、泣いてる女の子ににこにこ微笑みながら出来るやつは人として何か間違ってる。
あんなだから、あの女の子を助けようとしてもきっと今度は自分に水を向けられて二の舞だ。
教科書の薬草には見覚えがある。山で見かけたときに、俊藍や不本意だけどあの魔女に教えられたのだ。よく似た草なんだけど、葉の形が違って、生えてる場所も違う。一方は葉の形が丸いし、一方は三角。一方は日向に生えてるけど、もう一方はじめじめした日陰を好む。効能は同じだけど、日陰に生える方がちょっと強い効果が出る。薬の調合のときにはそのちょっと違いが命取りになるから、ちゃんと覚えろと言われた。……いや薬の調合なんかしないから。
めそめそ泣いてるだけじゃ解決しないけど、度が過ぎたらただのイジメだ。
仕方ないので私は手を挙げた。
確か今は根っこについての質問だったな。
「それってー、胃腸に効くんですよね」
葉っぱと根っこで効能が違うのはよくあることだ。
尋ねられてもいないが、講義を中断してやることには成功する。
そんな私をセレットさんとアンジェさんと、泣かされていた女の子ともども教室中がこちらに驚いた顔をしたけど、当のドエス教師だけは穏やかにニコニコしたままだった。ちっ、鬼畜め。
「あなたは?」
「どうもー。昨日入ってきた新参者ですー」
語尾伸ばすだけで生意気に聞こえるもんだ。でもドエス教師は顔色一つ変えない。そして何事もなかったように泣かせていた少女を座らせて、ようやく平和な授業を始めた。
えげつない教師もいるもんだ。美形ってどいつもこんなもんなのか。
溜息をつきながら半眼になると、隣から肩をつつかれた。セレットさんだ。
彼女はそれはそれは奇麗な顔でニヤリと微笑んでくれた。
私のささやかな意地悪は成功したようだった。
けれど、
「新参者さん。あとで私の部屋へ来るように」
授業の終わりにあのドエスに呼び出しくらったから、試合に勝って、勝負に負けた。