曇りと祈り
次の日は、どんよりとした雲が空を覆っていた。
朝に窓を眺めた私は、午後には雨が降り出すだろうと思った。
身支度を整えたところで、ドアがノックされる。
応えると、アンジェさんだった。
彼女は、いつもの質素なチャリム姿に珍しくマントを羽織っている。
この屋敷からは出てはいけないルールの中で、ここに住む女の子たちが遠出するような格好をすることはない。
「どうしたんですか? その格好……」
言いかけて、思いだす。
そういえば、彼女はもうそろそろ卒業するのではないだろうか。
五年以上ここに居る女の子はいない。
けれど、私の歓迎会ですらあれだけ盛大にやったというのに、卒業するときにはこんな、何も言わないで出ていくことになるなんてあるだろうか。
不思議そうな私の顔を見て、アンジェさんの美しい顔は一気に強張った。
「もしかして、あんた、何も知らないのかい……?」
知らない。
確かに、私は知らない。
ここがどういう場所なのか。どうして、彼女たちのような若い娘が集められているのかさえ。
「―――おかしいとは思っていたんだ。ハイラント様が直々に娘を連れてくることなんか無かったからね」
アンジェさんは激痛をこらえるように顔をしかめて「なんてことを…」と唸った。
「アンジェさん、いったい何が…」
アンジェさんは素早く私の部屋のドアを固く閉めて、部屋の隅まで私を連れていく。そして痛いほどの力で私の肩を強くつかんだ。
「いいかい。よくお聞き」
声はほとんどなく、ほぼ口の動きだけでアンジェさんは話しだす。
「早くここを出る用意をおし。あんたは魔除けのマントを持っていただろう。他のものは持ってはいけないけれど、あれは持っていくんだ」
「……私もここを出られるんですか?」
アンジェさんに倣って彼女を見返すと、アンジェさんは今にも泣きそうな顔になった。けれど、目を固く閉じて、再び私を見つめた。
「逃げるんじゃないよ。あいつらは優秀だからね。それに今はハイラント様もこの屋敷に来ている」
「あいつら?」
「バーリム達さ」
アンジェさんは少しためらうように言葉を切ったけれど、続ける。
「あいつらは選び抜かれてここに居る、東国でもエリート中のエリートの騎士だ。どういう役割を持っているのかは知らないけど、あいつらの目を潜り抜けて逃げることはできない」
唐突に、私は思いだした。
普通の学校には不似合いな毛並みのいい騎竜たち。
あの十頭は、そのままあの教師たちの数になる。
「恨んじゃいけないよ」
矛先が向きそうになっていた私の心を先回りして、アンジェさんが少しだけ苦笑した。
「あいつらは、国に忠誠を誓って騎士になっているんだ。命令があれば、どんな無慈悲なこともするけど、あいつらの私利私欲は一片も入っていないからね。―――ずるいことを言うようだけど、あいつらが、あたし達にかけてくれた情は嘘じゃないんだ」
同情も憐れみも、優しさも。
信じていいの?
問いかけるようにアンジェさんを見ると、彼女は今度こそ優しく微笑んで肯くと、私を柔らかく抱き締めてくれた。
「大丈夫。あんたの事は、あたしが必ず助けてあげるから」
優しい腕は、まるで、泣いているようだと思った。
私はアンジェさんに促されるまま、俊藍のマントを身に付けると二人で部屋を出た。
いつもはそこかしこに人の気配がする屋敷の中が、今は廃墟のように静まり返っている。
連れられるままに屋敷を出ると、玄関ポーチに二台の馬車が止まっていた。
その馬車の荷台は鉄と鋲がびっしりと打ちつけられていて、まるで囚人を護送するかのように頑丈に出来ていて、その中へと女の子たちがいつもの笑い声もないまま、自ら乗り込んでいっている。
馬車の傍らに立つ美形たちは、いつか見たブリキのおもちゃのような白銀の甲冑を身につけて静かに佇んでいる。
アンジェさんと私に気がついたのは、セルジュワ先生だった。彼女も他の美形と同じような甲冑姿だ。
普段であれば微笑んでくれるが、今日の彼女は硬い顔を崩さない。
「―――竜車へ」
言葉少なに示されて、アンジェさんは私を連れて頷いた。
馬車の周りにはウェンダやザイラス達がすでに騎竜に乗っていて、中にはヨルダさんの姿もあった。彼は見たこともない厳しい顔で曇天の空を睨んでいる。
私の視線に気づいたのか、ふと私の方へと振り返ったけれど、すぐに向きなおる。
表情は変わらなかったけれど、瞳の奥から向けられたのは憐れみだろうか。
私はアンジェさんと一緒に馬車へと乗り込んだ。
今まで誰もが人間らしい生活をしていたというのに、馬車に乗せられた彼女たちはまるで物みたいに肩を寄せ合って詰められていた。
私とアンジェさんが一番端に乗りこむと、何の言葉もなく馬車の戸が閉じられた。
ほどなくがたりと揺れ出した馬車の中でセレットさんやリアさん、ハンナや他にも見知った顔を見つけたけれど、誰もが目深にマントを被って固く口を閉じてうつむいている。
「―――ここはね」
アンジェさんは小声を私に向けた。馬車の騒音に負けるほどの声だったけれど、それは不思議と箱馬車の中に広がった。
「東国の一番西の端にある、戦場の近くにあるんだ」
思わず目を見開いた。
いつだったか、社長は言わなかっただろうか。この東国は、戦争をしない中立の国だと。
驚いた私の顔を見つめて、アンジェさんは目を細めた。
「東国は昔から西国と仲が悪い。それこそ戦争をするほどね。以前は小競り合い程度だったんだけど、今は王が長いこと政治から遠ざかっていたこともあって、だんだん酷くなってきてるんだ。元々、西国は領土を広げたいんだ。だから、戦争も長引きがちになってる」
俊藍は、言ってなかっただろうか。
世界の大則というやつは、円滑に戦争をするための約束事だと。
「今、この竜車はその戦場に向かってる」
何故。
どうして、武器も持たない彼女たちが、戦場なんかに行かなくちゃならないんだ。
アンジェさんを見つめると、彼女は静かに見返す。けれど、すぐに目を伏せて、今度は箱馬車の中の女の子たちに声をかけた。
「聞いてたとおり。ヨウコは何も知らない」
今までうつむいていた女の子たちは、一斉に顔を上げてアンジェさんと私に注目する。
「あたしたちの運命はもう決まっているけれど、あたしはこの子を助けたいと思う。協力してくれないかい」
箱馬車の中は静まり返った。息のつまるような沈黙の、馬車ががたりと揺れたあと、一人の女の子が顔を上げた。
「いいわ」
驚いたことに、ハンナだった。
「恩は返さないといけないもの」
それを皮切りに、女の子たちは口ぐちに肯いた。
けれど、待って。
助けを求めるように見まわすと、セレットさんとリアさんと目が合った。彼女たちは、ただ私に向かって安心させるように微笑んだ。
どうして、
「だったら皆で逃げたらいいじゃない!」
思わず声を上げた。
アンジェさんに口を塞がれたけれど、馬車の外に聞こえたかもしれない。でも、馬車の外からは何の応えもなかった。
「―――それは、出来ないよ」
アンジェさんは静かに言って、チャリムの前をくつろげた。
その白い胸元には、赤い複雑な紋様が羽根を広げたように刻まれていた。
「これは精霊の紋様といって、この紋様を刻んだ人間を炎の精霊に変えるのさ」
呆前とする私にアンジェさんは少し笑った。
「あたし達はね、戦場じゃこう呼ばれてる。赤い戦乙女って」
似合わないだろ、と彼女は笑うけれど、私は笑えない。
「あたし達は何千という兵士を、このたった三十人ばっかで消し炭に出来るんだとさ」
いつの間にか震えていた私の手をアンジェさんが優しく包む。でも、何かに気付いたのか、はっとして私のチャリムの胸元に手をかける。
「ちょ…っ」
「ちょいとごめんね!」
鮮やかな手並みで開かれた貧相な私の胸元に、アンジェさんと同じ紋様はない。
アンジェさんは息を呑むように目を見開く。そして、
「無い……」
呟くように言って、顔をくしゃくしゃにした。
「―――良かった」
彼女は、私の胸に額をつけて、泣いた。
幸せは知らないうちに逃げていく。
それは、楽しいものであればあるほど、するりと手の中から淡雪のように消えるのだ。
馬車が止まった頃には、私は訳が分かならないまでもアンジェさんたちの思いを受け止めようと決めた。
―――彼女たちが私に逃げろというのなら、私は必ずここから生き延びる。
がたりと馬車は止まったが、一向に馬車の戸は開かれない。
でもそんな静寂も、女の子たちの悲鳴で搔き消された。
「う、ああああああああっ!」
胸をかきむしってもがき苦しんで、まるで何かを生むかのように、悲鳴が上がる。
私は顔を背けることもできなかった。
一人の少女がこれ以上ないほど悲鳴を上げて、背を逸らしたかと思えば、
ボッ!
彼女の指先が、火の気もないのに燃え上がっていく。
指から腕へ、それは全身を巡り、とうとう全身を眩しいまでの炎が包みこんでいく。
チャリムもマントも全て燃え尽き、残ったのは、少女の形をした炎の精霊だった。
おおおおおおお!
言葉すらなく、彼女は凄まじいスピードで馬車の戸へ飛び上がると、轟音と共に外へと舞い上がっていってしまう。
彼女に続くように他の娘たちも炎の精霊と成り替わり、馬車の外へと飛び出していった。
私はあまりのことに悲鳴も上げられず、彼女たちのように悲鳴を上げはしないが苦しそうなアンジェさんにしがみついた。
「ヨウコ!」
呼ばれて咄嗟に顔を上げると、ハンナが首まで焼かれながら、猫目を吊り上げて笑った。
「これが終わったら、私、家に帰るわ」
少女らしい笑みを残して、彼女は精霊になってしまった。
すでに半数以上が外へ飛び出してしまった箱馬車の中は熱風と残り火に焼かれ始めている。
聞き覚えのある声を聞きつけて、私は見慣れた紫の髪を見つけた。
「セレットさん! リアさん!」
胸まで焼かれながら、彼女たちは微笑んだ。
「元気でね。ヨウコ」
私は答えることもできずに、ただ、彼女たちが精霊になっていってしまうのを見つめているしか出来なかった、
まるで、拷問のようだ。
生きたまま、炎に焼かれてしまうなんて。
こんなことが、あっていいはずがない。
「―――みんな、行きたい場所に帰るのさ」
苦しい息を吐きながら、アンジェさんが呟いた。
「あたしたちは、みんな、自分の人生に絶望した女ばかりだった。だから、こんな命でも何かのためになるのならって、志願したんだ。これに」
私がしがみついているアンジェさんの体は、すでに人の体温を超えている。
「これで自由になれるんだと思っていたけど、違うんだねぇ」
自嘲するように言って、アンジェさんは深く息を吐いた。
「そんなの、今からでも自由になれるじゃない!」
あっていいはずがないのだ。
こんな、自由になる方法なんて。
聞き分けのない子供のように叫ぶ私の頬を、アンジェさんは熱い指先でなぞった。
「離れておいで」
「いや!」
しがみつく私をアンジェさんは困ったように撫でる。
「大丈夫。あんたのことは、私が必ず守るから」
突き飛ばされた。
彼女の足先はすでに炎に包まれて、全身に回ろうとしている。
想像できない高熱に苛まれているだろうと思うのに、彼女は優しく微笑んだ。
「アンジェ!」
私は無我夢中に、手を伸ばす。
彼女が思わずといった風に差し出した指に触れると、ひどい痛みが走った。
体中に炎をまとったまま、アンジェの口元がわずかに動いた。
―――生きて、ヨウコ。
彼女は、美しい精霊となって、雨が降りそうな曇り空へと踊り出ていった。