銀髪とナイスバディ
あんた、誰。
私はその疑問をついにはぶつけることが出来ずにいた。
「もうだいぶ具合が良いようですね」
気がついたら豪華ではないけど、暖かいベッドの上でした。
あの胸クソ悪い魔女と鉄仮面に騙されたところで私の記憶は途切れている。
途切れているのだが、
「でももう少し休んでください」
この目の前でにこにこしている銀髪野郎に繋がるところが一筋も見当たらない。
長い銀髪、澄んだ碧眼。灰色の詰襟まで最後の記憶と同じだ。
でも、表情と雰囲気がまるで違う。
悪夢を見た後のように不愉快な汗で私は目が覚めた。
で、見憶えのないベッドに寝かされていることで、あの鉄仮面にこの部屋に放り込まれたのだろうということは分かった。
監禁か、軟禁か。
警戒しているところに、鉄仮面と思しき人物が部屋に入ってきたのだ。
思しき、というのは、あの表情なんか忘れましたと言うような鉄面皮がにこやかに微笑んだから。
意味がわかんなくて鳥肌が立ったじゃないか。
なんにせよ。あの魔女の元から出てこられたことにはホッとした。また顔を合わせるようなことがあったら自分が何をするか分からない。あの魔女が言ったことはまさしくいつも自分が考えている正論だと思うけど、正論がいつも正しく美しいわけじゃない。図星っていうのは不愉快に出来ている。
近寄るなと言わんばかりに睨んでやったが、銀髪野郎は薄く笑っただけだった。
記憶にある鉄仮面には違いない。不本意ながら、あの華々しい顔を一度見たら忘れられるものでもない。双子だっていうなら歩く有害だ。
「お腹が空いていませんか。食事は食べられそうですか?」
そういや部屋に入ってくるとき、お盆持ってたな。笑顔が不気味で視界の外に置いてたみたい。
ベッドの脇のチェストに置かれたお盆の上には、消化によさそうな豆のスープとお椀に入った雑穀。それから甘そうな果物が乗っている。猛烈に喉が渇いていて湯気の漂うカップに手をつけたかったけど、度重なる騙し討ちにすっかり疑心暗鬼だ。くそ。社長に会ったら絶対殴る。
そういや、私に毒を盛った一味の一人がこの鉄面皮だった。殴りたい。
が、彼は得体が知れない。
私が一向に警戒を解かないでいると、何を思ったのか銀髪野郎はお盆のカップを手に取って、口をつけてしまった。
一口飲んで、にっこり笑うと私に差し出してくる。
「毒なんて入っていませんよ」
アンタが特殊訓練受けてたら分かんないじゃないか。
それに人の口、しかも信用ならない相手が口をつけた物なんて手を出す気にはなれなかった。
けれど、
「それとも食べさせてあげましょうか? 口移しで」
私の対人運は未だ地平線をさまよっているらしい。
しかも、男運に至ってはすでにグラフをマイナスに振りきっているのではあるまいか。
私が渋々受け取ろうとしたら、狭い部屋にドアの外から悲鳴が響き渡った。
「それならぜひ私が!」
どっとドアが開いて文字通りなだれ込んだのは、うら若き女の子三人だった。
色や形の違いはあれど、みなさん一様に可愛らしいチャリムドレス姿だ。年の頃は十六歳から上ぐらい。二十歳には届かないだろう。
目を丸くした部屋の中の二人、主に銀髪と目が合って顔を赤くするなんて、なんて可愛らしい。
「さぁ、どきな! まだ縫物の途中だろう!」
ぽーっと銀髪に見惚れていた彼女たちに一喝が飛んでくる。
あたふた立ち上がって「失礼しました」と愛想笑いして出ていった女の子達の後ろから現れたのは、長身の美女だった。
燃えるような癖のある長い赤毛に泣きぼくろのある深い色の碧眼。一つ一つのパーツも大きいけど形が良くて、口紅ひかれた唇は官能的に笑みを作る。黄土色の地味なチャリムだけどナイスバディが惜しげもなく強調されている。大迫力美人だ。
「悪かったね。騒がしくして」
と、ハスキーな声の先は私にだろうか。彼女は見惚れる私に向かって思わずといった風に微笑んだ。
「ハイラント様も大概にしておくれ。甘やかすとうっかり本気になっちまう」
「すみません。あまりに可愛らしいもので」
艶然と、という言葉を形にしたみたいに銀髪は微笑む。どっかの額縁にでも入ってろ有害銀髪。
迫力美人は呆れたように肩を竦めると、手に持っていたお盆をこちらに差し出してきた。
「アンタ、丸一日寝てたんだよ。体の調子はどうだい」
あまりに気さくに話しかけられて、私はどういう顔をしたものか迷った。
人を信じたいのに、信じられない。
戸惑う私に、美人はそっとお盆をベッドで座ったままの私の膝上に乗せた。
「このチュクはね、サルをウユの乳でじっくり煮込んで隠し味にオミテンを入れてある特別製だよ。そこにある豆のスープはウユ肉とピッカンテを加えて一日煮込んである。そのサルはここで育てたもんだ。そのタルダは近くの山から採ってきたもんだよ」
それから、と美人は私が受け取ったカップを指さした。
「それはウユの乳。ポルクルを入れてあるから甘くて温まるよ」
優しい声に促されるように、私は暖かいミルクを見つめた。
優しい人はたくさん居た。
でも、それは無条件じゃなかった。
殺されかけたり、裏切られたり、同情されたり、罵られたり、別れたり。
何でもいいから、私は生きるつもりだった。
厚意だけを受け取って、あとは全部見ないふり。
悪気のない悪意に、心ない悪意に傷ついた自分の心もかえりみない。
わけも分からない内に、死ぬなんてまっぴらだ。
元の世界に帰れるかもしれないし、帰れないまでも家族に無事だと伝える方法があるのかもしれないのに。
帰りたい。
切実に思った。
運は悪いし、派遣社員の生活はろくでもなかったけれど、あのまま暮らしていてもきっとろくでもなかっただろうけれど、自分の生まれた世界に帰りたい。
異世界に来てから私の足元はふらふらと海藻みたいにおぼつかない。ひどい嵐に翻弄されて、海面をただ漂っているように。
俊藍に一度は引き上げられたけれど、彼は自分の帰るべき場所がある人だ。
私にいつまでも付き合っていていいはずがなかった。
俊藍は私の傷ついた心を理解してくれていたけれど、彼も私と同じように傷ついているからどちらも癒されることはない。
近しい魂というのはそういうことだ。
あまりに似すぎていて何も生まない。
彼は一番の味方で、私は彼の一番の味方だ。けれど、お互いの傷が見え過ぎて引きずられてしまう。
誰か、助けて。
ふいに、柔らかく頭を包まれた。
それが人の腕だということに気付く前に、私は柔らかな日差しに似た匂いに驚いた。
「辛いことがあったんだろ」
辛い。確かに辛かった。
無理矢理、この世界に落とされたことも。
唯一、心を許していた俊藍と、別れてしまったことも。
本当は、そばに居て欲しかった。
心細い場所に、一人置いていって欲しくなかった。
「帰りたい場所があるのなら、ここでしばらくお休み。ここはそういう場所なんだよ」
静かな声は、辛いことも悲しいことも全部受け入れてくれるようにも聞こえた。
それは、きっと彼女がそうだからなのだろう。
「私はアンタを歓迎するよ」
そうして顔を起こされて、ふわりと微笑まれた。柔らかいはずだ。彼女の豊満な胸に顔をうずめさせてもらっていたらしい。女で良かった。危うく鼻血を吹くところだった。
「私はアンジェ。アンタは?」
「……葉子です」
呟くように言うと、迫力美人、アンジェさんは嬉しそうに微笑む。
「やっと口をきいてくれたね。可愛い声じゃないか。可愛い顔してるんだからもっと笑いな」
いえいえ。美人には敵いません。
強張った顔に笑顔を作ろうとしたが予想外に体力が落ちているらしく出来なかった。
社長の側近であるはずの銀髪鉄仮面がいる。
だから、彼女のことも本当には信用できない。
親切にしてくれる人のことを疑わなければならないなんて。
「暗い顔をするんじゃないよ」
哀しくなって少し俯いた私の肩をアンジェさんが優しく叩いた。
「子供が出来たからって男に捨てられたのかい? それとも男が愛人作って逃げ出したのかい? そんなこといっぱい転がってるよ。男なんて幾らでもいるんだからね。気にしてやる必要なんかないよ」
申し訳ない。そんなディープな理由じゃありません。