東の果てに落ちた魔女
振り上げられた拳を、避けることなどしないつもりだった。
歯ぐらいはくれてやるつもりだった。
けれど、彼女は勢いを殺したと思ったと同時に力を失って足から崩れ落ちた。
「……何をするの。ハイラント少尉」
エバが睨んでも、この白い貴公子は素知らぬ顔で倒れた娘を抱え上げる。
「彼女は、あなたを殴るつもりなどありませんでしたよ」
まさか。
だがこの娘ならありうるような気もした。
この、あきれるほどお人好しな娘ならば。
長く政治を離れていたヘイキリング王に、今やほとんど力はない。
そして北城家に連なる血筋の召喚がなされ、更に力を落としたはずだった。
しかし、彼はここにきて城に帰還した。
このヨウコ・キミジマという娘によって呪いを解かれて。
彼女はたまたまこちらに落ちた完全な被害者だ。
だが、共に来た人が悪かった。
東国は今、二つの派閥間で揺れ動いている。
彼女の存在を目ざわりに思う者たちが命を狙うのは、彼女にとって不運以外の何物でもないだろう。
けれど、エバには彼女を助けてやる気など無かった。
彼女は自分が生まれ故郷である北国に帰るための道具にすぎない。
故国を追われて二十年近く経つ。
もはや諦めかけていた帰国を、この冷たい貴公子は叶えてくれるという。
ハイラント・朝来・ジンブリウムと言えば、賢者バルガーにその才を認められ、北国の魔術師養成機関であるエスパシオ機関で博士号を修めた天才だ。北国でも元老院に覚えがいい。
彼が繋ぎをとってくれるのならば、エバの帰国もそう遠くない賭けだと思えたのだ。
年々年老いていくエバには時間がなかった。
なんと醜い。
醜い自分の姿に目を覆いたくなる。
これが、かつて知恵者と知られた東の魔女のなれの果てか。
だから、せめてもの罪滅ぼしにヨウコに沢山のことを教え込んだ。
彼女は、自分に才能がないと思いこんでいるが、一度聞いたことをほとんど忘れない。
恐ろしい速度で自分の知識を吸収していく彼女に、何かを教える喜びさえ思いだした。
きっと、こんな出会い方でなければ、本当に彼女を弟子にしていただろう。
年頃の娘だというのに一向に身だしなみを繕おうとしない彼女に業を煮やし、ついチャリムまで買い与えた。
「彼女のマントを寄越してください」
白い仮面をつけたような無表情に何の事だと問うと、陛下が彼女に渡したマントを取ってこいと言う。
あのハイラントという若者は、得体が知れない。
いったい、どこまで彼の手のうちなのだろうか。
彼女が使っていた寝室の、ベッドの下に大切に置いてある箱がある。
その中からマントを取り出した。
エバはこんな事態を招いた加害者の一人だ。
けれど、同情せずにはいられなかった。
何も知らずに異世界に放り込まれ、なんて酷い扱いだろう。
できることなら幸せになってほしい。
しかし、それは叶わない。
近い将来、彼女は死ぬことになるのだから。