王様と右手
不敬罪という言葉は、私の住んでいた日常じゃ、あんまり使われない。
でもさすが異世界。
「無礼だぞ! 膝をつかぬか小娘!」
リアルに無礼と言われました。
ブリキの仮面かち割るぞ。この野郎。
「よい。彼女は私が世話になった者だ」
俊藍はすっと私の頭を撫でた。
大きな手。
お世話になってたのは、こっちの方だ。
一言ぐらい言ってくれててもいいはずだ。
でも、私が俊藍の立場だったら、自分が王様だなんて言えただろうか。
だからって、奥さんに言わせるような名前言わなくてもいいと思うけど。
静かな湖面のような蒼い瞳。
狼の顔だった頃から変わらない理性と知性を備えている。
覗きこむとまるでビー玉のように、けれど反転しない私の顔が映っている。
「エバ」
いつの間にか膝をついて頭を下げている魔女に俊藍は硬い声で言った。
「東の果ての魔女として、この者を守り導け」
「はい」
エバさんも静かな声で応えて顔を上げない。
俊藍は少し彼女を見定めるように見ていたけど、やがて私に視線を移した。
「時間切れのようだ」
いつものように笑うから、私も少し笑ってしまった。
「ヘイキリング陛下? だっけ?」
「……何も言わなかったことは、謝る」
だが、と俊藍は叱られた子供のような顔をする。
「俊藍と、呼んでくれ」
こういうとき、美形はずるい。
どんな顔でも奇麗に見えるから。
「わかった」
きっと、もう。
「また、会いに来る」
会えない。
俊藍は椅子から立ち上がる。
その姿は大きな彫像のようにも見えた。
この人、ほんとに王様だ。
俊藍は、ゆっくりと部屋の端に置きっぱなしだった荷物からあの、黒いマントを取り出した。
二人でくるまって寝たマント。
よく見ると、細かい刺繍が刺してある。一針ずつ丁寧に縫いこんであって、きっと俊藍に贈られたものだ。
それを差し出された。
受け取れない。でも、ほとんど無理矢理持たされた。
「陛下、その外套は先王陛下の…」
膝まづいていた甲冑の一人が言いかけたが、俊藍はそれを視線で制した。
「大事なものなら貰えない」
「大事だから、お前に持っていてほしい」
穏やかに、けれど頑として押し返されて私はマントを受け取った。
見上げた俊藍は、誰よりも孤独に見えた。
なのに、心の支えまで放り出してしまうつもりなのだろうか。
きっと、もう会えない私に。
俊藍の右腕を捕まえた。
彼は少し驚いたように身構えたけれど、そのまま両手で右手を握り締めてやる。
「ありがとう」
もしも願いが届くなら、自分を厭わないで。嫌わないで。
私はあなたの味方だ。
「ありがとう。俊藍」
うまく、笑えただろうか。
俊藍は困ったように微笑んだ。
それが、どこか泣いているようにも見えて。
「ありがとう。葉子」
右手がするりと抜けていく。
もうその後ろ姿に迷いはなかった。
堂々とした足取りで、こちらを振り向かない。
ありがとう。私はあなたに救われた。
だから、さよなら。
私の、誰よりも大切な人。