雨と味方
夕暮れの中を、葬列がゆっくりと流れていく。
辺りは夕煙が立ち上り、その中を托鉢の僧侶と葬列が交互に道を行く。
道の脇に揃った街の人々は、朝夕欠かさず僧侶たちに米や野菜を浄財として施すのだという。
東国の宗教は一貫して、日本の八百万の神様みたいなものらしいが、この寺院が立ち並ぶヘルプストの街では厳格な宗教が根付いている。
この街では、朝に出産祝いや結婚式を行い、夕方にお葬式が行われる。それは人の人生の時間をなぞっていて、川の向こうに沈む太陽と共に、死者は焼かれて土へと還っていく。
ヘルプストの街は大きな川の真ん中の中洲にある街だ。
この長大な川をダホーといい、この川を超えたら死の山がある。この物々しい名前の山の向こうに魔女が住んでいる。
托鉢の僧侶たちが持っているハンドベルみたいな振鈴の音を宿屋の窓辺で聞きながら、私は久しぶりのツタ製の寝台にだらりともたれかかる。
川を渡るまで街道は通らず、ずっと野宿で来たのだ。屋根があることがこんなにも有難いとは思わなかった。
さすがに体力馬鹿の俊藍も堪えたようで(彼は荷物のほとんどを背負っていた)いつものように同じ部屋の寝台に腰かけて一息ついている。
「ダイモン、天国に行ったかなぁ」
僧侶たちに次に葬列が窓の下を通っていった。
泣く人はほとんどない。
俊藍が言うには、こちらのお葬式は宴会になるんだそうな。晴れやかに故人を神様の元へ送りだして生まれ変わることを祝して。悪いことをして地獄に落ちるっていう考えはない。代わりに来世でどんなものに生まれ変わるか決まるっていうことで。前世の行いが悪ければ、この世でろくでもないことに巻き込まれるとか。
……いやいや、いくら私が運悪いって言っても、私、小市民だから。せいぜい小さい時に弟泣かしたぐらいですからね。
いや、前世の行いが……?
いやいやいや! どこまでいっても私だからね! そんな、大それたこと出来るわけが、…ねぇ?
「ダイモンは、賢い奴だったからな」
きっと良い生まれ変わり先になるだろう、って俊藍は笑った。
就職先みたいだな。
でも、
「そうだね。ダイモンの望むように、素敵な所に生まれるといいね」
そして素敵な人生を。
少なくとも、お腹なんて空かない所がいいよね。
「そうだな」
静かに俊藍の声が降ってきて、顎を手袋の指が持ちあげてくる。
そうして、ゆっくりと口づけられる。
時々、本当に時々、俊藍はこうして唇を求めてくる。
それは、私のことを知りたいというのではなく、まるで自分の存在を確認するように。
そして、キス以上のことは求めなかった。
俊藍の方も物足りないということは無いようで、唇を放すと満足そうに目を細める。
別れが近い。
その距離を埋めるかのように、唇を合わせている。
きっと、私たちはこれでいいのだ。
今日の宿には銭湯がついていて、夕食前にひとっ風呂浴びることができた。
本日の夕食は、豚足みたいな角煮をとろとろに煮た煮物とさっぱりした野菜のスープ。それから雑穀蒸したおにぎりみたいなお饅頭。それからそれから! なんと! 味噌があったんですよこれが! 内容は知らないんだけど肉と合わせた肉味噌とおにぎりがセットになっててお好みでつけて食べるんだそうな。でも風味はちょっと魚臭い。そういやここは川なのに、魚は食べないのかな。お店のお姉さんに聞いたら、川の魚はみんな肉食で、臭みが強いからこうやって身を味噌に漬けて食べるしか出来ないんだそうな。
異世界、奥が深い。
宗教色の強い街らしく、夜はお酒は出ないしお店も早く閉まってしまう。だから、俊藍と食事したら早々に部屋に戻った。
いつもの町じゃあ、酒場の時間にご飯食べてたりしたから結構遅くまでのんびりしてたから、今日はちょっと時間の感覚が抜けている感じがする。
というか、俊藍と二つの寝台で向かい合って座るっていうのが、何だか何とも言えない。お互いお風呂上がりだっていうのも何とも。
「今日はこちらで寝るか?」
腕を広げるなこのセクハラ親父。
見た目美形のくせしてどうして口を開くと残念なんだ! バランス考えてよ! バランスを!
睨む私を笑いながら、無駄な美形さまは乾いた髪を見憶えのある飾り紐でくくる。
「気に入ったの? その紐」
「ああ」
俊藍は珍しく素直に嬉しそうな顔で笑った。いつもは人を小馬鹿にした笑いか、パパみたいな慈愛に充ちた微笑みだ。
あの飾り紐は安物ではないけれど、高いものでもない。
寄った町で少しずつギルドからお金を出して、街の物価を見てるから近頃そういう目もついてきた。
今日の宿は中の上ぐらい。結局、俊藍が払っちゃったけど。
前に、チンピラ達から逃げるのに使った衣装は次の次の町ぐらいで売っぱらってやったよ。高く売れました。お化粧品は仕方ないから私が持ってるんだけど、つける機会はこの上もなく無い。
ともあれ、自分の買った物が気に入ってもらえるのは素直に嬉しい。
「葉子は、俺の買ったかんざしを何時つけてくれるんだ?」
アンタは買い過ぎなんですよ。
立ち寄る街で、いつも高い着物やら腕輪やら買おうとするから止めるのに苦労する。妥協したのが、箱に入ったままの繊細な装飾のついたかんざしだ。ちょうど、肩までぐらいしかない私の髪をまとめてアップにするのにちょうどいい大きさの。
幾らしたと思いますか。
金の棒二本ですよ! 金二本!
旅に必要な食糧、一週間分が買えておつりがくる!
でも、いいお金になりそうだから大切にしてる。
いえいえ! 人から貰った物をそんな…。…派手派手白チャリムドレスを売ったのは旅における効率化です。
俊藍とくだらない話をして久しぶりの布団で寝た。
目覚めたら、川を越えて死の山に入る。
死の山を越えたら、俊藍とはお別れになる。
翌朝はまだ日も昇らないうちに起きて、支度を済ませて宿を出た。
船頭さんだってまだ寝ぼけているだろうと思っていたら、すでに市場が開かれていて、早朝に運ばれてきた品物が溢れている。
私たちはそこで持てるだけの食糧を買って川を渡る船を探した。
死の山に行くと言うと、中年の船頭さんは少し驚いたが、今は乾期だからまだマシだと言って快く渡してくれた。
死の山は、珍しい薬草の宝庫で、大陸の薬屋が貴重な薬草を求めて時折やってくるのだそうだ。
この、物々しい山の名前の由来は、私は身を持って知ることとなった。
今までの森も道なんてなかったけど、ここは人を寄せ付けないという表現がぴったりくる。
大木と深い緑が生い茂り、出口どころか入口さえ何所か分からない未踏の地だ。
ここが、なぜ死の山なのかというと、ここには食糧となるものが水しか無いからだ。
青々と茂る草も木の実どころか木の皮でさえ、すべて有害な毒を含んでいて、食べられるものなど何もない。だから動物の姿はなく、川に魚の姿さえない。唯一、口に出来るものは地図に記された湧水だけで、川も湖も毒を含んでいて飲めるものではない。
そんな土地にどうして薬草があるのかというと、その毒草こそが薬となる貴重な薬草で、市場に流せばひと財産になるという。難しい調合をしてまで、この山の毒草を飲もうとした先人に献杯だ。
今は乾期だからマシだといった船頭さんによると、未開の地だから下手に水の多い雨期に山へ入ると毒水のてっぽう水や洪水に襲われることがあるからだそうだ。くわばらくわばら。
雨期ではないっていうけれど、わずかに人が通れる岩場の滑ること滑ること。
ただでさえ歩きにくい岩の上に苔がむしむししてて、油断すると滑って転んでひどいことになる。
弱り目に祟り目とはこのことで、山の天候は変わりやすい。
案の定、晴れていたはずの空に雲が出てきたなーっと思ったら一気に雨粒が降ってきた。痛い痛い!
俊藍に助けてもらいながら、雨宿りできる場所を探してさまよって、ようやく岩のくぼみを見つけた頃には二人ともずぶ濡れだった。
くぼみの近くのまだ湿り気がマシな薪や枯れ葉を拾って火をおこそうとするけど、無理。
でもこのままじゃ、風邪ひくどころか低体温症とかヤバイ状態になりそう。
すると、俊藍がふいに手を差し出して「燃えろ」と一言。
……そういや、この人、こういう特殊技あるんじゃない!
こういう時、問答無用の発火能力は便利だ。
濡れた服をお互い背を向けて脱いで、着替えたら人心地ついた。普通、ここで肌と肌で温めようとかそういう展開になりそうじゃない? 俊藍はそれでもいいみたいだったけど、私は嫌だ。誰が自分のドッペルゲンガーのような男と一夜のアヤマチ犯したいものか。少なくとも私はナシ。
断ったら、顎を取られてしまった。
唇を開かされて、舌を絡めとられる。
「ふ…あ…っ」
まるで交換するような行為にまだ慣れない。それが面白いのか俊藍はゆっくりと口の中を這う。
焦らすような、誘うような動きに私の目尻から涙が落ちた。
さすがに、山道を歩いてきて雨に振られて疲れきっているのに、息がろくに続かない状態は正直きつい。
「んあ…あ…」
猫が喉を鳴らすような声が漏れるだけだったが、私は俊藍の服を掴んだ。するとゆっくりと唇が放れていく。助かった。
着替えたとはいえ、まだ冷えている私の体を温めるように俊藍はそっと抱き締めてくる。
まぁ、これならじきに二人の体温で暖かくなるだろう。
雨はまだ止む気配すらない。
俊藍の規則正しい鼓動が心地よかった。
異性で抱き合っているという感覚はない。
むしろこのままで居たいとさえ思った。
だから、俊藍が私とは別の生き物だということに、悲しくなる。
幾ら同じでも、考え方が違えば別の生き物だ。
「―――このまま、お前が俺の中に溶ければいいのに」
大きな手が私の背中をさまよって、離さないというように私を深く抱きこむ。
けれど、そうして私が彼の中に溶けるというわけじゃない。
たとえ体を繋げても、本当に一つになるわけじゃない。
たとえ、俊藍の炎の能力で私を溶かしてしまっても、私は灰になるだけだ。
それが、無性に悲しかった。
「本当に、俺と共にはいられないのか…?」
絞り出すように、俊藍の声が降ってくる。
本当は、俊藍が居なければ私は心細くて寄る辺のない子供みたいになってしまう。
でも、一緒に居ても、彼とは何も生まれない。
きっと、俊藍と居れば、私は幸せになれるだろう。
けれど、一緒に居るだけの幸せで、何かが生まれるだろうか。
俊藍は私の、私は俊藍の、欠けた心を戻しただけだ。
今までの、欠けたままでの歩みを、きっと止めてしまうだろう。
決して楽ではなかった。
俊藍だって同じだ。
彼は私以上の苦痛を味わってきただろう。
でも、それでも、何も無かったわけではないはずだ。
「私は、あなたを愛せるけれど、それは必要だから出来ることであって、私の望みじゃない」
愛しいことと、愛せることはたぶん違う。
俊藍も、同じだろう。
私が必要だから愛せるだけだ。
「でも、私は、あなたの一番の味方だと思う」
誰が俊藍を信じなくても、私は最後まで信じられる。
それは、何の確信もなかったけれど、自信があった。
たとえこの人に殺されたとしても、私は信じているだろうから。
俊藍が欲しいのは、私じゃない。
絶対の味方だ。
何があっても裏切らないで、時には自分を怒ってくれさえする心の味方。
俊藍は、私の首筋に頭を埋めた。
小さく震える広い肩になだめるように手をかけて、私も彼の首に額をつける。
雨だれの音に耳を傾けて、ただ静かに私は目を閉じた。