抱擁と炎
街道を外れた森の中で、休憩所を見つけると、私たちは火をおこすことにした。
私だってもう慣れたものだ。薪を集めることから手伝おうとしたけど、俊藍に止められた。
あんまり見たくないけど私の手は血塗れ。今更ながら、鈍い痛みがじんじんとやってきていて確かに動かすのは億劫だ。
手際よく火をおこすと(今度は手放しじゃなくて火打ち石で)俊藍は私に手を出せと言ってきた。
私の手は、自分の血とダイモンの青い血が混ざって青黒くなってしまっている。
俊藍は少し湿らせた手拭いで私の指先から丁寧に血を拭うと、貝の入れ物(本物の貝なんだよ)から赤い塗り薬を取り出して塗りつけていく。裂いた布を当てて余った手拭いで私の指を一つ一つ巻いていって、最終的に私の手はぐるぐる巻きにされてしまった。
これじゃスプーンぐらいしか掴めない。
不満顔で俊藍を見上げると、彼は苦笑して湿らせた手拭いで私の頬を拭った。
「もしかしたら、今晩、熱が出るかもしれない」
熱冷ましの薬草を探すついでに、自分は水浴びをしてくると言って、俊藍は珍しく一人で森の奥へと入っていった。
こういう時、たいてい私を連れていくのに。
マントを残していったので、私は荷物の箱と一緒にくるまっていることにした。
俊藍は、きっと自分から漂う血の匂いを消しに行ったんだろう。
それをいったら私も相当なものだと思うけど、俊藍は私の非じゃない。人間の血の匂いだ。
マントの数を数えてなんかいられなかったけれど、彼らが逃げる様子は全くなかった。
当然だ。多勢無勢で斬りかかっていたんだから、誰かが彼を殺せると思ったのだろう。
そう、俊藍は、明らかに命を狙われていた。
それも、何の関係もないようなダイモンにさえ容赦を与えないほど、執拗に。
そんなマント達を、俊藍は一人で。
いったい、何者なんだ。
心の中で繰り返す問いを、私は俊藍に尋ねることができなかった。
人が殺されるなんて、私の暮らしていた日常ではありえなかったものなのに。
こんな状況で、いとも簡単に人の命を奪ってきた俊藍を、私は怖いと思えない。
状況に私が慣れつつあるのか、いわゆるストックホルム症候群というやつなのか。
自分のことなので、判断がつかない。
分かるのは、俊藍が私を助けてくれて、ダイモンは私のせいで死んで、私は結局役立たずだっていうことだけ。
そういえば、俊藍、水浴びに行ったけど、手拭いとか着替えは持っていってなかったはずだ。
私は気分を入れ替えるために、荷物の中を漁って彼の着替えと新しい手拭いを探しだした。
ここで悩んでいても仕方ない。
ダイモンは戻ってこないし、私が急に才能を開花させるわけでもない。
まずは着替えを持っていこうか。
でも荷物をここに置いていくのは心もとない。
干し草がなくなった分、他の荷物は休みながらであれば私でも抱えられそう。
私は羽織っていたマントをばっと広げてくるめそうなものはマントに包んで泥棒の風呂敷みたいに背負った。
箱と言ってもツタで編んでる昔のこうりみたいなものだから荷物が入っていても軽くて、ぐるぐる巻きの手だって持てる。
私は火の始末をしてから、荷物を担いでえっちらおっちら俊藍が歩いていった方向に歩き出す。
森は、林といっても良いほどで、視界も道も良好だった。
明るい方向へ歩いていくと、ざぁざぁと水の流れる音が聞こえてきた。
音を目指して歩くと、滝に近い清流の岩場が見えてくる。
岸部に着く頃には息が切れていたけれど、俊藍の姿を見つけて思わず息を呑んだ。
深いところに静かに浸かっている体は、鋼のように鍛えられていることが遠目でも分かる。
腰まで水に浸しているので長い髪が水面に広がり、筋肉が無駄なくついたその背中には、大きな傷が斜めに走っていた。
古い傷だと分かったが、生々しい傷痕に私は目のやり場に困った。
「俊藍」
声をかけると、彼は驚いたようにこちらを振り返る。
頼むから水から上がるなよ。
近くの岩場に服が畳んで置かれている。
剣は、水の中でも携えていたようだ。一瞬、構えようとして、私と見とめて鞘をまた下げたから。
「着替え、持っていかなかったでしょ」
「―――…なぜ来た」
今日は珍しいことだらけだ。
俊藍が不機嫌に声を低くすることなんて、滅多にない。
私は答えることが出来なかった。
自分が淋しかったわけでも、ダイモンのことを悼む時間が苦しかったわけでもなかったのに。
どうして、俊藍の着替えなんてことが気になったんだろう。
改めて不思議に思ったけれど、私は俊藍の服の上に新しい着替えを置いた。
俊藍は私をじっと見ていたかと思うと、自分で手当てした私の手を掴んだ。
「痛い」
まだ治ったわけじゃないのに。私が顔を歪めても、俊藍は力を緩めようとはしなかった。
いつもと違う。
いつもは湖面のように揺らがない蒼の瞳が、今は嵐に煽られているかのように波打っている。
治まらない痛みに誘われるように、私は俊藍の手に手袋がないことに気がついた。
大きな、骨ばった右手の甲に、描かれたのか、彫られているのか、不思議な文字が刻まれている。
私の視線を感じたのか、俊藍は目を細めた。
それが自嘲なのか、苦悶なのか、色々な感情を籠めたように唇の端を上げる。
「俺の、呪いだ」
えっと顔を見つめると、彼は歪んだ苦笑を強める。
俊藍の呪いは、もう解けたはずじゃなかったのか。
「この呪いは、俺が生来持っているもので、炎の呪いがかけられている」
その呪いの証が、この手の甲のしるし。
「目に映るもの、俺の本能に従って炎がおこる」
俊藍はもう片方の手を差し出して、左右揃えて見せてくれた。左の手には複雑な模様が彫られている。
「こちらはこの呪いを制御するために俺が生まれてから彫られた魔術だ。これのお陰で、俺は自分の意思で火を操ることが出来る」
すでに肌に馴染んでいる様子の彫り物は、その歳月を思わせる。
私はいつの間にかその差し出された両手を持って見つめていた。
「この国で、こう言った呪いを受けて生まれる子供は神の子と呼ばれるが、魔術とは違って本能と直結した力だから忌み嫌われることが多い」
私に魔術と、そういう超能力との違いは分からない。
分からないが、
「俺は、生まれてくるときに、この力で産みの母を殺した」
俊藍がこの力を厭んで、憎んで、それでも足りないことは感じた。
怖い人だ。
自分が憎いなんて。
いったい、誰が俊藍を赦すというのだろう。
悲しくなって、俊藍の手を握り締める。
「葉子」
顔を上げると、いつかのように唇を貪られた。
水の中に引き込まれそうになって、もっと悲しくなる。
俊藍は、こんなものが欲しいわけじゃないのに。
私は、無理矢理に唇をかわして、勢いよく俊藍の首に抱きついた。
水が跳ねる。
俊藍の素肌がびくりと怯んだ。
どくんどくんと、鼓動が聞こえる。
しがみついていると、何かが川の底に沈んでいく。
俊藍の剣だ。
冷たい手が私の首を怯えるようになぞった。
そして、そっと、まるで問いかけるように私の背中に腕を回す。
じんわりと、彼の体が温まってくるのを感じた。
それは決して熱ではなく、まるで自分の体が帰ってきたような心地がした。
まるで違う世界から、全く違う環境で、性別も何もかも違うというのに、欠けていた心の一部がパズルの正解をはめ込んだように、ピースがぴったりと吸いついて、何もかもが満たされる。
ああ、これは、恋じゃない。
今まで感じたこともない充足感に、私は圧倒された。
欲しいでも、与えるでも、愛しいでもない。
私は、この異世界で、自分の片割れを見つけたのだ。
彼が居れば大丈夫。
私は彼を信じるだろう。
たとえ遠くに離れても。
しばらく水辺で抱き合ったままだった。けれど、さすがに離れるとお互いの顔を見合せて、笑ってしまった。
何せ、俊藍は裸のままだ。
「戦のあとに、どうして女が必要なのか知っているか」
生命の危機を本能で感じて、高まった性欲を処理するためだ。
そういう時は、本当に誰でもいいらしい。
だから、俊藍はなぜ来たと顔をしかめた。
「森で抱かれるのは嫌だと、お前が言っただろう」
この人のセクハラ癖は、ちょっと死んで治した方がいいと思う。
私は俊藍の顔に思い切り水をかけてやった。