髪と手拭い
もしも、神様がいるのなら、私は神様の視界から外れているのだろう。
でも、私はちゃんと生きていて、今まで少ないながらも誰かに必要とされて生きてきた。
自分自身の意味は、自分で作るべきだと思うけれど、それでも一人はやっぱり不安で怖い。
こちらの世界に落とされて、その理由が限りなくゼロになった。
だから、一つでもいいから理由をくれた俊藍に、私は最大限感謝をしたい。
でもね、だからってね、
「……っ! 放して!」
いきなり抱き締めてベロチューはよくないと思うんだ。というか、
「も、もう必要ないんでしょ!」
交わりとやらは完了したから、人に戻れたんでしょうが!
息次ぎに(最悪だ)離れた俊藍の顔を思いきり両手で覆ってやった。
どうしてそんなに不服そうな顔をするんですか。
「女欲しいなら他当たって! あなたなら選り取りみどり!」
せっかく提案してやったのに、目の前のキラキラしい男は顔をしかめただけだった。
「お前がいるのに、どうして他をあたらねばならない」
呟くように言うから吐息が手の平をなぞってくる。いーやーだー! せっかく水浴びしたのに!
「どうして他をあたっちゃダメなのよ!」
「お前が良いからだろう」
あーもう嫌だ! 話すのも嫌だ! どっかに埋めてくんないかなこの美形さま!
「お前はどうして俺では気に入らない?」
さも意外そうに聞いてきますね。ムカつくな。
「気に入る気に入らないの問題じゃない!」
くそ! 腰を抱くな! 近寄るな!
俊藍は私を自分の足の間に抱きこんでこちらが油断するとゼロ距離に持っていこうとしている。
だから、私は全力で腕を突っ張らないといけない。この馬鹿力め!
どうしてこんな爽やかな朝っぱらからこんな労力使わにゃならん!
「私は、白馬に乗った王子様が迎えにきて素敵な恋して素敵な結婚する予定があるのに、どうしてアンタに森のど真ん中で私をくれてやらないといけないの!」
結構本気なんですよ。これ。
そしてものすごく驚いた顔をするんじゃないこの無駄美形。
「アンタは私のことなんか何にも知らないし、私もアンタのことなんか全然知らない!」
だから、一夜の恋なんてやつが出てくるんだろうけど、弱い私にはそんな刺激は強過ぎる。
「きっと、アンタみたいな奇麗な人に抱いてもらえれば、私にとっては幸運なんだろうけど、そんな幸運なんかこれから来ない私は快楽に自分捨てるわけにもいかないし、アンタに色んなことをこれ以上、希望するのもまっぴらゴメンよ」
命を助けてもらった。ご飯をくれた。靴だってくれた。充分じゃないか。
「アンタは行為の意味を知っているのかもしれないけれど、私は知らない。頭が良ければうまく遊ぶこともできるんでしょうけど、私は無理!」
こういう行為はお互いを確かめるための作業であって結果じゃない。体繋いだところで何がわかるというんだ。
処女の屁理屈だと思うなら笑え! モテない女の自意識過剰だと思っとけ!
お遊びで触れてくる野郎のどこまでが遊びで済むのか境界線なんて分かったもんじゃないだろうが!
「冗談だって言うなら、ここでキレイさっぱり忘れるから、冗談はやめて」
というか、頼むから冗談と言ってくれ。
正直なところ、これからどう付き合いがあるかわからないこの男と気の迷いで関係持って、この先どんな顔して文句言えばいいのか分からない。
どういうわけだか、この俊藍という男は信頼できる人物としてそっと置いておきたいのだ。
その思いがなんなのかはわからないけど。
……なんか、考えてる間も、ものすごくジッと見られてて居心地悪いからこういうこと思ってるわけじゃないんだけどさ。
睨み合いにも近いほどしばらく見つめあって、俊藍は何を思ったのか私の手首を掴んだ。
痛い!
そういや、手首ってこすれたままじゃないか! 思い出したら痛い! 馬鹿力でつかむな!
思わず身がすくんだ私の額にこすりつけるほど顔を近づけたかと思ったら、俊藍はひどく冴えた瞳で私を見つめてきた。
「ならば、お前は、私が奪うまでその貞操を守れ」
………はぁ?
「何、それ」
思い切り顔をしかめちゃったよ。眉間のしわが気になるわ。
「言葉のままだ。私が、お前を奪うまで、その貞操を、何びとたりとも、犯させるな」
この男にこんなことを言われる筋合いはない。
そう言ってやろうと思ったら、あまりにも真剣な双眸に言葉を呑んでしまった。
「もしも犯せば、その男を地獄へ突き落して、どんな手段を使っても、お前を手に入れる」
訳が分からん。
何言ってるんだこいつは。
「俊藍以外にも、助けてやった女、誰でも良いから手篭めにしようって人なんか幾らでもいると思うけど」
そんな野郎の言うことなんか聞く気はないけどね。
言ってやると、ふいに俊藍は項垂れた。
「………いったい、どう言えばいいんだ…」
よく分からないが、手首つかんでる力が緩んだからとっとと放してもらおうじゃないか。
あーくそ、せっかく治まってたのにまた痛い。
顔をしかめていたら、今度は俊藍がゆっくりと私の手首を取って、視線を落とした。
なんでアンタが痛そうな顔をする。痛いのは私だ。
しばらくそうしていたかと思ったら、俊藍は腰の箱から布包みを取り出してきた。そういえば、この筆箱みたいな大きさの箱から色々出てくるもんだ。出てくるもののほとんどが、小さくまとめられているから出てくるんだろうけどそれにしたってよく入る。
私が大人しく不思議そうにしているのを尻目に、俊藍は今度は私が渡したはずの手拭いを取り出して、一息に裂いた。
布目って方向あるっていうけど、こんなに簡単に避けるものなのか。
半ば唖然としている私を放って、今度は布包みから緑の絵の具みたいなのを裂いた布に塗りつける。そうして、その布を私の手首に問答無用に巻きつけた。
うわ、冷やっとする。ちょっと湿ってるし。
怪我をしていた両腕に布を巻きつけると、俊藍は私から少し離れて、地面に座り込んでる私の足元に膝まづいてきた。おおい。なんかイケナイことしてる気分になるよ。
「足も出せ」
………手当て、なのか?
「……言葉足りないってよく言われません?」
大人しく靴の紐をといて俊藍に足を差し出したら、黒髪の頭がちょっと揺れた。ああ、言われたことあるんだ。もしくは自分で思ってるとか。
結局黙秘を貫いて、俊藍は手首と同じ要領で私の足首にも薬らしきものを巻いてくれた。
「ありがとうございます」
思わず微笑んでお礼を言った。
なんだかんだと世話焼いてもらってるしね。信じられないほどの肉食系だけど。
ふと顔を上げる俊藍の美しい髪が地面にこすってるのを見て、思わず声を上げたくなった。もったいない!
せめてものお礼に、確か持ってた荷物の中に私が髪ひっつめるのに使ってた結構奇麗な飾りのついたヘアゴムがあったから、それ差し上げたい。似合うと思うのになぁ。
でも、今、手持ちはまったくない。ウィリアムさんにもらった皮包みもない。不可抗力だけど、今度会ったときどう弁解すればいいんだ。大金はギルドに預けてたし、その証明の木版はクリスさんに預けてるから、お金の大半は大丈夫だろうけどね。
靴を元通り履く作業中も、俊藍はじっとこちらを見つめて喋らない。
慣れはしないけど、まぁ、かまうことはない。
「その髪、地面にこするほどになってますけど、何か結うもの持ってます?」
あんまりにも奇麗な髪だから気になるんだよねぇ。でも俊藍は別のことを悩んでいたらしい。
「……その言葉使いは、癖なのか?」
「言葉使い?」
「その、敬語とそうでない言葉が混じる話し方だ」
ああ。
「敬語得意じゃなくてすみません」
「そうじゃない。どうして敬語なんだ」
どうして? その方がどうしてだ。
「目上とか、よく知らない方には敬語が普通でしょう」
俊藍には文句言うことが多いからだいぶ敬語でなくなってはきていますけれどね。そんなことは言わない。
「……まぁいい」
「それより、結うもの持ってます?」
「ない」
実に簡潔に応えて、俊藍はすらりと立った。この人ほんと鍛えてるんだわ。動きにほとんど無駄がない。
「この山を下りてすぐに街がある。そこで必要なものを揃えよう。街で一泊する」
街に。
「出ても、いいんですか?」
すでに色々なことがありすぎて忘れがちだが、私はさらわれてきたのだ。あの男たちが私を探しているかもしれない。
人を探すならその街へ出ている可能性もある。
でも、もしかしたら、万が一でも、クリスさんが私を探していたら。
「私は、無事だって伝えたい人がいるんです」
義務感の強い子だったから、いらない心配をしているかもしれない。
見上げた私を俊藍は目を細めて見て、頷いた。
「探されていると思うのなら、なおさら山を下りた方がいい。女一人と思っているだろうから、姿を変えて人にまぎれてしまえば探すのは容易じゃない。街へ出れば、皇都の城へも連絡がつけられるだろう」
俊藍はその大きな手をこちらに差し出してきた。乱暴なんだか紳士なんだかわかんない人だ。
手を借りて立つと、やっぱり自分の背が縮んだ気がした。慣れない。
「彼も心配しているだろうからな」
ぼそっと頭の上で呟かれた。
彼?
「誰ですかそれは?」
「―――…お前と、一緒にこちらへ来た男が居ただろう」
ああ、社長のことか。
「社長が私の心配なんかするわけないでしょう」
私のこと、図太い変な女だと思ってるからなあの人。
「さらわれた時に、城下町案内してくれてた女の子が居たんです。その子、とっても責任感の強い子なので、連絡とって無事だってこと知らせておかないと」
可愛い子にストレスなんて貯めさせちゃ駄目だし。
「……そうか」
心なしか俊藍が笑った気がした。変なの。
高度を上げた太陽はそろそろいい具合に森に光を届け始めている。
二人で焚き火の始末やらをしたあと、俊藍は私にマントを被せて、山を後にするべく私たちは道など見当たらない鬱蒼とした森を歩き始めた。