黒衣の男
浅い吐息を繰り返して、彼女はゆっくりと体の力を抜いていった。
最後の意識まで吸い尽くすように快楽を与える口づけを繰り返すと、ようやく彼女は意思を飛ばした。
「この、サイテー男…」
憎々しげに腫れた唇から零して。
余韻の残る唇を再び舐めとって、細い体を抱き締めた。
意識のない彼女を欲望のままに貪れば、今度こそかつてないほどの剣幕で彼女は激怒するだろう。
それでも構わないとも思うのは、自分が今までにないほど歓喜に満たされているからだと、俊藍は思う。
彼女、葉子に出会ったのは、俊藍にとって幸運以外の何物でもなかった。
それは、今までの辛苦を一掃するほどの僥倖であり、希望であった。
彼女と出会ったとき、俊藍は絶望の淵にあった。
せめてもの慰めに、と眺めに立ち寄った此岸花畑で彼女は茫然と座っていたのだ。
さして、美しい娘ではない。
顔立ちも、体つきも平凡で、背は世の女性よりもすらりと高く、肩より少し長いだけの髪を交えても、一見すれば少年のようにも見えた。
口を開けば、憎まれ口。
しかし、まっすぐに物事を見通す漆黒の瞳に俊藍は呑まれた。
彼女の瞳の判断は実に的確で、思いもよらよらない言葉が愛らしい唇から飛び出てくる。
したたかな娘だ。
だが、ただの娘だ。
平凡で、平和で、孤独が不安な。
不安に泣く姿を見て初めて、出会った木の下で感じていた僅かな違和感の正体を見せられたような気がした。
天女のようにも感じていた娘だが、こうして触れれば異世界から舞い降りただけの、ただの娘。
いとしい。
何の根拠も、何の理由もなかった。
彼女の不遇を思えば心が痛む。俊藍には必要な女だったといえば運命と片づけられよう。
しかし、そのどれも普段厳しく律された俊藍の理性を崩す衝動の理由にはなり得なかった。
そして、この衝動は、俊藍には許されない。
とめどない涙の跡を唇でなぞる。
無防備に眠る彼女が愛おしい。涙を流す姿が狂おしい。こちらを睨むその瞳に映っていたい。
心に触れれば、瞳に映れば、声を聞けば、頬を包めば、冷たく凝った心の奥が温かく灯る。
その全てが許されないというのなら、せめて今宵だけ。
柔らかな体を胸に抱いたまま、俊藍は目を閉じた。
せめて、今夜だけは心のままに。