異世界とわたし
年を取ったな、と思う。
「―――おい、どうするんだこいつは」
黒髪の、五十年経っても一つも変わらない美貌の吸血鬼が不機嫌に、自分が抑えつけている暴漢を面倒臭そうに片手で軽々と吊り上げて言う。
「面倒だから、食っていいか?」
「駄目よ」
溜息をついて花壇の淵に立つと、暴漢はこちらを睨みつけてくる。
「貴様の夫のせいで我ら一族は…!」
「夫は二十年も前に亡くなりました」
冷ややかに言ってやると、暴漢の顔はますます赤くなる。
「文句がおありでしたら、夫の墓前でお願いします」
吸血鬼に目線で屋敷から放り出せと指図すると、彼はしぶしぶ男を捕まえたまま庭を去っていった。
五十年も経って、まだ恨まれているとは。
自分の夫だった人ながら今更に呆れる。
「ヨウコおばあさま!」
庭先の、背の高い花のあいだから少女がこちらへ血相を変えて駆けてくる。
赤い髪が美しい黒い瞳の小さな娘だ。
二番目の息子の娘にあたる。私の孫だ。
「大丈夫だったの。怪我はないの。おばあさま!」
今年十五になったばかりのこの娘は、私の庭が好きでよく遊びに来るのだ。
今日も、そうして勝手にやってきたらしい。この子はよく家を抜けだしては、侍従を困らせている。
「まぁ、この庭掃除もない時期に怪我なんてするはずがないじゃない。ロト」
「……それは、あのベンデルとかいう男がついているから?」
ロトは、ベンデルが苦手だ。
まぁ、彼をあまり好む人間もいない。
人並み外れた美貌というものには誰しも畏怖を抱く。
「別に私が今死んだところで、誰も困りはしないのよ」
はしこい孫娘に微笑んでやっても、彼女の顔は晴れなかった。
「誰が死んでも悲しいものよ。おばあさま」
もしもおばあさまが亡くなったら私が一番泣くわ、とロトに言われて、そうだったと思いだす。
そうだ。
誰が死んでも悲しいものだ。
私も、もうたくさんの人を見送った。
私は、年を取った。
それは中身だけの話ではなく、外見も。
黒かった髪は白髪で真っ白だし、棒きれのようだった体は今ではマッチ棒のようだ。
元の世界に居られなくなったということが原因かもしれない、と年を取らない魔術師が興味深そうに分析していた。
私は、女としては少しがっかりしたけれど、思いのほかあの人は喜んだ。
共に年を取っていけると。
それから五十年余り。
長い時間を過ごした。
その間に、たくさんのことをした。
まず、三人も子供を産んだ。
上二人が男で一番下が女の子。
これはまずかったと思っている。
だって、兄の二人と父親が末っ子を猫可愛がりしたせいで、彼女は少し世間離れした娘になってしまった。
だから、私が彼女を城の騎士団に放り込んだときには散々恨み事を聞かされたものだ。今では、その末っ子は女性初の騎士団長となって、幸せな結婚もした。
兄二人は、父親と同じく文官となって政務に今でも携わっている。
子供に手がかからなくなってから、私は王都の屋敷の庭造りを始めた。
あのサバンナのような景色はそれなりに楽しめたが、あまりにも殺風景だったからだ。
今では、
「今年もロウゼが奇麗に咲いたわね。おばあさま」
一年を通して様々な花が見られる庭となっている。
つい先日、カルチェが亡くなった。
彼女も、激務のかたわら、私の庭が見たいと遊びに来ては一日中居座るほど大好きだった。
一度は壊滅した領地を復興させるという大事業を成し遂げた彼女の土地は、今も美しい街並みを湛えていることだろう。
私がこの世界に残って五年経ったある日、アグリが死んだ。
けれど、カルチェは下を向かなかった。
決して。
アグリは、きっとカルチェを想いながらあちらの世界で生きただろうから。
一年前には、俊藍が亡くなった。
あの丘で会って以来、彼と話すことはなかった。
でも、会う機会は前より増えた。
そうというのも、彼の後添えがセイラさんだったから。
何でも、伯爵の使いで東国の駐在として出向した彼女に一目ぼれしたそうで。
世の中は機縁に満ちているようだ。
四国の同盟を結ばせるという偉業を成した彼は、子供や孫に囲まれて穏やかに逝ったと聞いた。
弱くなった足で杖をつきながら孫娘のあと追う。
きっと、私もすぐに逝く。
そして、そのままこの地で眠ることになるだろう。
「おばあさま。今日はお姉さまと美味しいお菓子を焼いてきたのよ」
お茶を用意するわね、と駆けていく孫娘を見送って、私は庭を見回した。
我ながら、よくここまで花だらけにしたものだ。
五十年前には、木といえばコーヒーの木しかなかったというのに。
コーヒーの木は、あれからギルドの目にとまり、今では一番上の息子が農園を持つほどになっている。
そして、あの人の好物となった。
「―――おい」
ふわりと風が降りてきて、黒髪の吸血鬼が不機嫌に見下ろしてくる。
「ご苦労さま。今、ロトがお茶を用意してくれているわ」
吸血鬼は涼やかな青のチャリムの肩を竦めた。
この吸血鬼の食生活を変えることも大変だった。
何せ数百年、人肉を食べてきたのだ。
だから、十年以上をかけて辛抱強くこの吸血鬼に人肉以外を食べさせることをやった。朝に叩き起こし、不機嫌な彼に朝食を少しずつ与えて、昼に夜しか変化できなかった本当の姿という今の姿に戻す。まぁ、これも我ながら気長によくやった。
「……お前が死んだら」
「あら、ロトとの話を聞いていたのね」
ますます不機嫌になった吸血鬼は、私のあとをつまらなさそうに歩きながら不貞腐れながらも続ける。
「お前が死んだら、食っていいか」
振り返ると、吸血鬼が意外にも真剣な目でこちらを睨んでいた。
「駄目よ。せっかくお菓子を美味しいと思えるようになったのに」
そうなのだ。近頃になって、この吸血鬼はようやく甘いものを口にするようになった。
「腕一本」
「駄目よ」
「小指一つ」
「駄目」
杖をつきながら歩いている私につきまといながら、吸血鬼はなおも追いすがってくる。
「……髪のひとすじもあの男の物だというのか」
「馬鹿なことを言わないでくれる?」
私のものは、私のものだ。
「ちゃんとした姿でお墓に行きたいだけよ」
あの人の居ない世界で、ちゃんと生きた私の、最後の矜持だ。
「なら、血をくれ」
「まぁ、あなたったら私が死んでからもこの家に縛られるつもり?」
少しも年を取らない、淋しがり屋な吸血鬼を見上げると、彼はとても困ったように顔をしかめていた。
「だったら何なら許すんだ」
「暇を持て余しているなら、私の子供たちや孫たちを見守ってあげて」
「それから?」
まだ何かをしてくれるというのか。
「私が死んでも、泣かないでね」
ロトは泣くと言ったけれど、泣かれるのはこりごりだ。
去年私が倒れた時には、子供たちや孫がすがりついてきて大変だった。
せっかく、ミセス・アンドロイドばりの厳しい、怖い、意地悪なおばあさまとして君臨していたのに、目算が外れたにもほどがある。
美貌の吸血鬼は私をしばらく眺めて、「わかった」と何を思ったのか私の手を取って、
「長の友であったお前に、敬意の証として」
しわくちゃの手の甲にくちづけた。
「……食生活は治ったけれど、馬鹿は治らなかったわねぇ」
「お前のその悪い口もな」
吸血鬼は、私を面白がるように笑って、宙へと逃げていった。
杖で蹴られないようにするとは。やっぱり私もあの吸血鬼から比べればまだ若いのだろうか。
でも、と楽しくなった。
あの世であの人が妬いていないだろうか。
赤銅色の髪のあの人の抗体が完全に消えてしまったのは、私と結婚してから二年経ったときだ。
体が弱かったという彼だったけれど、結局それから三十年も私と生きた。
最後の五年ほどは、もうほとんどベッドから起き上がれない状態だったけれど、自分によく似たふてぶてしい息子たちと可愛がっていた娘に囲まれて楽しそうにしていたから、闘病も楽しかったんじゃないだろうか。
子供が生まれてからも仕事が忙しくてろくに遊んでやれなかったからか、病床におさまった時にはすっかり年頃になっていた子供たちをからかってよく怒られていた。
あの人が長生きしたのは、私が作ったコーヒーがあったからじゃないかとも思っている。私がコーヒーを入れるようになってから、あの人はすっかり煙草をやめてしまったから。
あの人はこの庭もとても愛した。
私が子供の面倒を見ながら庭を作っているのを面白くなさそうに見ていたというのに、いざ出来上がってくると人一倍入り浸るようになったのだ。
病に倒れて屋敷にずっと居るようになってからは、次々と襲ってくる暗殺者を尻目に日がな一日庭で日向ぼっこして過ごす日が増えた。
それを見かねたのか、一番上の息子が東屋を作ってくれたことには、性悪ながらも嬉しそうにしていたものだ。
それからは、この東屋があの人の定位置となった。
人が二人入ればいいというほどの広さに小さな椅子が置かれた東屋は、今では花にうずもれるように建っている。
杖をついて椅子にゆっくりと座ると、あの人が見ていた光景が見える。
広がる庭、そして古い屋敷。それが一望できる。
あの人は、憎まれっこ世にはばかるを体現したような人だ。
不治の病で死ぬまで暗殺者に狙われ、謀略に忙殺された。あの人が死んでからも私や子供たちまで政敵や恨みを持つ人に狙われている。
本当に、ろくでもない人だ。
それでも、あの人は幸せだったんだと思う。
ベッドからも出られなくなって、子供たちも独り立ちしていく中で、屋敷の中に私とほぼ二人きりという生活がしばらく続いたある日。
あの人が窓の外の庭を見ながら、こんなことを呟いた。
「―――幸せになりましたか。葉子」
それは独り言とも区別のつかないものだったけれど、私は昼食の用意をしながら応えた。
「さぁ?」
おざなりな応えだったのに、あの人はいつものように微笑んだ。
「そうですか」
―――その数日後、あの人は死んだ。
この東屋で、花に埋もれるように。
看取る人もなく、残す言葉もなく、ただ微笑んで。
「おばあさま!」
ああ、孫娘の声が聞こえる。
この子にこの庭をやろうと言いたいのに。
「おばあさま?」
まぁ、いいか。
きっと、この子が庭が好きだったことはみんなが知っているから、この子が欲しいと言っても家族の誰も反対しないだろう。
「眠ってしまったの?」
そう。
眠るのよ。
そして、きっとあなたと話すことはもうできないでしょうね。
私は、どうなるのだろうか。
こんなしわくちゃのおばあちゃんになっても、私は死んだあと、自分がどうなるのか分からない。
あちらの家族は、もういないだろう。
お母さんは、私を恨んだだろうか。
お父さんは、私を嘆いただろうか。
弟は、私を蔑んだだろうか。
でもそのどれでもないような気がしている。
私の両親だ。
きっと、私と同じで、ただ案じていただけだろう。
美味しいものを食べられているかどうか。
元気かどうか。
弟は、私をただ心配していただけだろう。
姉の悪運がどこまで続くのかを。
ステファンは、きっと幸せになっただろう。
嫌いだけれど、あのもう一人の私もついでに幸せになっていたらいい。
そして願わくば、私はこのままこの世界の土になりたい。
この世界の土になって、この美しい世界の一部になりたい。
でもいつのことだったか、あの人が私の腕を掴んで言ったっけ。
また、必ず会いに行くって。
私がどこへ行こうと、必ず探して会いに行く。
そしてそのまま、またそばに。
―――葉子。
呼ばないで。もう眠いのよ。
―――起きてください。
放っておいてよ。
―――そうはいきませんよ。
むずがる私に、そっと煙草臭い唇が押し当てられた。
優しく、けれど吐息の一つまで食らうように。
苦しい!
もがく私をくすくすと嘲笑う声が聞こえる。
何なの、あいつは。
最後まで最悪なんだから。
私は、あなたに言えなかったことを後悔しているのに。
あなたに、幸せだと言えなかった。
私は、幸せな人生だったと。