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とりかえっこ漫遊記  作者: ふとん
201/209

風とコスモス

「―――そろそろ起きてください」


 頬を、長い指が滑る。

 指先が私の唇に触れて、


「さぁ、起きて。あなたのその愛らしい唇で、私に朝の洗礼を与えてください。愛しい人」


 目が覚める。


 そして、つかんだ枕を投げた。



「出て行け!」




 赤銅色の頭に枕を叩きつけることが、私の最近の日課だ。




 この朝の忌まわしい慣習が始まってから、私は真剣に話し合いの場を持ったことがある。あいつの書斎で睨みあったのだ。

 朝っぱらから不快極まる珍事で叩き起こされるのは、私のストレス環境に良くないと。

 しかし悪魔の方は、どこまでもうわ手だった。


「でしたら、日々私が抱えるストレスをあなたが解消してくださるのですね」


 その体で。


―――駄目だ。本気でセクハラされかねない。


 未だに私の手だけに触れるような日常を甘んじて受け入れた方がいくらかマシだ。それが安眠妨害に繋がろうと。


 王都に戻ってからも朝のたわごとから始まる悪魔の口説き文句は読経のように続いている。ありがたくないからタチが悪いが、慣れれば普通になるから、人間の慣れとは恐ろしい。


 

 悪魔を寝室から追い出して身形を整えながら、私は窓の外の新緑をぼんやりと見遣る。

 ポリテイク嬢は予告通り一日でここを発ってしまった。

 最後の一日は、クルピエの二日酔いが治らないのでほとんど屋敷の中で過ごしてしまったけれど、彼女は笑顔で満足したように言ってくれたから、それなりに楽しんでもらえたのだろう。

 彼女には、結局私の事情は何も話していない。


 一人だけで考えようと思ったからだ。


 結婚証明書は、悪魔が出かけている隙に北の屋敷でもこの王都の屋敷でも探している。

 でもいくらあいつの書斎やシガールームを引っくりかえしても見つからない。

 ミセスは私が何かしているのは知っているけれど、何も言わないでいてくれているようだ。時々、廊下で見つけた私を呆れかえるような目で見てくるから。


 幸いなことに近頃、悪魔は毎日のように城に出かけている。

 私は一人で居られる時間は各段に増えた。


 領地では畑の維持なんかにかかりっきりだったし、ミセスとゲミュゼさんの四人暮らしだったから、やることはたくさんあった。

 でも今はフェンも居るからと私は掃除なんかの雑用を取り上げられているから、屋敷の中でぶらぶらしている時間は多い。

 私の外出許可も出るようになった。

 お伴にベンデルさんかフェンを必ずつけるという約束をさせられたけれど、ミセスに言えば屋敷の外へとサリーを走らせることも出来る。

 

 今日も、天気がいいからミセスに許可をもらってサリーを厩舎から引っ張ってきて遠乗りをすることにした。

 ベンデルさんは面倒だからと姿を消してついていくから、と言って私の目の前から消えてしまったけれど、彼にすっかり懐いたサリーが何となく落ち着いているから近くにはいるんだろう。


 屋敷の周りの森は、チャリム一枚では少しだけ肌寒い。

 相変わらずの深い色の木々を湛えたこの森は、サリーの足音も吸い取ってしまうほど静かでひと気はない。

 秋では見かけなかった薬草も見られたけれど、私はサリーの足を止めさせなかった。


 行きたい場所があった。


 森を抜けるとそこは田園と山道が広がる。街はもっと麓にあって、山には岩場とトーレアリング家の人たちが代々眠る墓しかない。

 その墓の方へと道を抜けていくと突然丘に出る。

 丘の眼下に広がるのは、コスモスにも似た青い花畑。


 そう。


 私が、この世界に落ちて、目が覚めた場所だ。


 悪魔に教えられた時には驚いたけれど、今日の今日まで行ってみたいとは思わなかった。

 地平線まで覆い尽くすような青い花は、まるで空を映したよう。


 あの時は、こんなことを思う暇もなかったけれど。

 

 サリーと一緒に大きな木が一本だけ立つ丘の頂上を目指す。

 悪魔の話によると、青い花はこの時期にだけ咲く花らしい。

 花になんか興味のない人だと思っていたけれど、この此岸と名の付く花は好きだという。


 そんなことを、あんな人と話すようになるなんて、あの時は思いもしなかった。


 この世界で、生きていくことになるなんて、思ってもみなかった。



 あの人は、あの赤銅色の髪の人は私に居場所を与えてくれようとしている。

 自分のそばで、と。

  

 でも、素直にあの人の手を私は取れなかった。


 嬉しかった。

 口には決して出さないけれど、本音をいえば。

 プロポーズをされるたび、顔なんかいつだって真っ赤だろう。

 けれど、頷けない。


 きっと、私に覚悟がないからだろう。

 あの人の隣で、今のまま流されるみたいに過ごしていく覚悟が。

 まるで、濁流に飛び込まなければならないような心地になるのだ。

 だから、一度やり直そうと結婚証明書を探しているけれど、その場所は知れないまま。

 あいつはいったい何を考えて、私を本気で嫁にしようだなんて思ったんだろう。


 強がっていても、本当の私はこんなにも怖がりなのに。



 サリーの足が止まって、始めて私は自分が前も見ないで歩いていたことを知った。

 見渡したら、もう目的の頂上だ。

 そう、あの花の辺りに寝転がっていた。


 視線を上げて、人が居ることに気が付く。


 黒髪の、長身のその人は、暗い色の仕立てのいいマントを羽織って、振り返るその身には簡素だけどやっぱりいいチャリムを着ている。

 深い蒼の目が私を捉えて細められて、足がすくんだように動かない私の元へとゆっくりとやってくる。

 

 風が丘の上に吹く。


 私はその風に背中を押されるように、一歩、踏み出した。


「―――久しぶり。俊藍」


 長い黒髪を風に遊ばせながら、俊藍はそっと綻ぶみたいに微笑んだ。



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