涙と指
いつだって、私は不安だ。
どんなに順調に進んでも、その先には落とし穴があるのではないかと疑ってしまうのだ。
実際、そういうことが多かったし、自分の予想を上回る悪意にさらされることもある。
それでも腐らずやってこれたのは、家族がいたり、友達がいたりしたからだ。
彼らが私を励ましたり、からかったりしてくれるから、私はそれほど深刻な事態を招かずに済んでいた。
でも、ここは違う。
私の知る人は、私を知らず、私の方も誰も知らない。
命の危機にまでさらされて、私のそばにいるのは、ろくなことを知らないろくでもない男。
「葉子」
長い指が私の頬を遠慮がちに撫でる。泣いてるんだからあんまりこすらないでほしい。痛い。
触らないでほしいから丸くなっているのに、つくづく人の心を察しない、空気読まない男だ。
そういえば、私がこいつのマントを取っているんだった。
マント返してほしいならそう言え。
私は涙も鼻水も止まらないまま、マントを返すべく自分の肩からマントを引き抜いた。
突っ返そうとマントの端を目の前の非常識男に突き付けたら、何を思ったのか男はそれを無視。
ひとの良心まで無視して、あろうことかマントごと私の体を抱きこんでしまった。
「放してよ!」
決して小さくはない私の体が俊藍の腕に中にすっぽりとおさまってしまう。
不愉快だ。
不愉快で堪らなくなって、俊藍の胸を叩いた。くそ、なんでこんなに硬いんだ!
悔しいのと恥ずかしいのとで涙も止まらないというのに、この黒髪の頑丈な男は私を余計に抱き締めてくる。
「やめろ。お前の手が傷む」
そういやコイツ鎖帷子なんか着こんでたんだ。痛いはずだ。
俊藍が体を放さないから、結局私は彼の肩に顔を置くしか術がなくなってしまった。
耳を頑丈そうな肩につけると鼓動が聞こえる。それが自分の鼓動なのか彼の鼓動なのかわからない。
規則的な音を聞いていると、急上昇していた頭の血の気は潮が引くように引いていった。
でも涙と鼻水は止まらない。
腕も動かせないほど押さえつけられているから、こいつの着物で拭いてやる。
ぐりぐりと顔をこすりつけると、大きな手で頭を撫でられた。手が大きいから私の頭が急に小さくなった気さえする。
あんたの子供か私は。こんな頑丈で美形の親父だったら確実にグレてる。
「……やめて」
鼻声で言うと、背中に回っていた腕が緩んだ。
すぐに逃げてやろうと思ったら、大きな両手が今度は私の両頬をつかんでくる。
好き勝手に扱ってくれるな兄ちゃん。
「私、あんたのお人形じゃないんだけど」
だから、なんで私の憎まれ口で楽しそうに笑うかな。
形のいい薄い唇、形のいい鼻筋。落ち着いた理性を宿す切れ長の瞳に長いまつげ。長めの黒髪はよく見れば腰にまで流れる長さだ。お姉さんだったら喜んで言うこと聞いたよ。
でも顔のパーツも体のパーツも、女性的な形は一つもない。男の黄金比で固められた美しい造形。
むかつく。
これなら私の頭をひと呑みにしそうな狼頭の方がまだ可愛げがあった。
「そんな、虫けらでも見るような眼で見られたことはなくてな」
ささくれだった気分で睨んでいたら、非常識な美形は苦笑した。
そりゃそうでしょうよ。神様に愛された人間を誰が虫と比べますか。
虫以下だと言ったら世の人に怒られそうだ。
「―――止まらないのか? これは」
形のいい唇が私の目元に寄せられて、流れて止まらない涙を舐めてくる。舐めるの好きだなこの男は!
気でも失うことができれば楽なんだろうけど、この男が近くにいるから不安で眠気もやってこない。
「どうでもいい! 疲れた! お腹すいた!」
「まるで子供だな」
生理的な欲求を叫んだだけなのに、面白がるように笑われて、すでにぼさぼさの髪を丁寧に梳かれた。
お腹の虫すら疲れて鳴らない。この緊急事態に休むなよ。
俊藍はそれが当然だというように頬を流れている私の涙を舐めとって、目を細める。
「今は眠れ。明日になったら話してやる」
初めて会ったときからそうだけど、なんだかんだと偉そうなんだよ。
そう思ったら、
「んん!」
また口づけられた。
今度は、さっきの行為が遊びだったのではと思うほど噛みつかれているようで息ができない。
無理矢理、唇を割られて、蹂躙される。
「んあ…っ」
時折、空気を送られて、鼻から空気が甘えるような声で抜けていく。
この男、ほんとに許せない。
泣いてる女を追い詰めて楽しいか!
さっきまでの涙とは別の涙が零れていく。
聞こえてくる水音に身がすくむ。
頭を包みこむ手が煽るように髪を梳いて逃げられない。
まるで無理矢理に溶け合わせるように全てを絡めとられて、眩暈がする。
ああ、最悪。
最悪の日をまた更新して、私は混濁の渦へ放り込まれた。