迷子と黒マント
その日は、相も変わらず最悪な日だった。
近所の犬に吠えられ生ゴミを出し損ねて遅刻しそうになって正社員に睨まれ、残業必至の仕事を渡されたかと思えば定時に帰れと叱咤され、泣く泣く昼休みにも仕事をして終わらせたかと思えば同僚に「あの人使えない」扱いされ、やけ酒を飲もうにも次のバイトが控えていて慌てて退社し、他のバイトが居ないと店長に泣きつかれるまま深夜まで居酒屋で客の注文を取り続け、家に帰って寝る時間もないと疲れきっていた帰宅途中。
信号を見ていなかったのが悪かったと思う。
けれど、アクセル全快に踏み込むかフツー?
わたくし、君島葉子が最期に見たのは交差点を傍若無人に突っ込んできた車のヘッドライトでした。
自分の持ち物を確認しながら、ここまでの経緯を思いいたって、がっくりと項垂れる。
なんて運の悪い。
気がついたらお花畑に座ってたなんて、どんな死に様したんだ私。
お父さんお母さん先に死んじゃってごめんなさい。
弟よ、今まで貸したお金ちゃんと返しといて。葬式代の足しになるから。
あ、でもどうして死んでるはずなのにこんなに現実感ありありの、コンビニで買ってきたビールがあるんだろう。
雲一つない青空のもと、あまりにもだだっ広い花畑に放り込まれていたので、近場にあった大きな木の下に避難して、こうしてお店を広げているのだ。
くたびれきったバイト帰りだからロクなものは持っていない。
財布と携帯、手帳にハンカチ、化粧直しのポーチ。あとはコンビニ袋の中身のビールにおかかのおにぎり。
辛うじてジーンズと薄手のセーターに安いコートを羽織っているけど、トレッキングに向いた格好とは言い難い。
この不安な装備のまま、果ての見えない地平線の向こうに、居るかもしれない第一村人を探して歩くのは無謀に思えた。
そもそもこのお花畑には天国だが浄土だかっていう雰囲気があるけど、それにしたってお迎えらしきものもない。
今まで一度も死んだことも川の向こうに渡りかけたこともないから、詳しいことはわからないけど。
まさかここは地獄か?
このまま飢えて干からびろの刑?
今まで一度も手が後ろに回ったことのない私になんて無体な最期!
「なんだ、マヨイビトか」
低い、くぐもった男の声だった。
思わず悲鳴を上げそうになった口を押さえて、ゆっくりと振り返る。
自分で思っていたよりもパニックだったらしい。
この気配に気がつかないなんて、気が動転しているとしか思えない。
それほど近くもないのに、影の長さに圧倒されるほどの長身。
明らかに怪しい人型だった。
日光を避けるためなのか黒に近いマント姿で頭から目深にフードを被っている。
声がくぐもっていたのは、昔のお代官様みたいに口元にも布があててあるからだ。
そのため、この人型の容貌は全く知れない。
ただ、物騒なことにマントの下からは平和な現代日本ではまずお目にかかることのないだろう、剣らしき鞘の先が見えている。
怪しい。
怖い。
思わず地面に座り込んだまま後ずさった。
それを見てとったのか、怪しいマントはゆったりとした、それでいて隙のない動きでその場に片膝をついた。
「……大丈夫だ。お前に危害を加える気はない」
カチリと音がしたかと思うと、差し出すように地面にマントが置いたのは、腰に佩いてたらしい剣だった。
柄には滑り止めの皮なんかが巻かれていてとてもよく手入れされて、使い込まれているようだ。
いやいやいや!
こんなの差し出したって、素手で十分負けますよ私!
首をぶんぶん横に振ると、困ったように(マントだからわからないけど)黒マントは首を傾げる。
「俺の言葉が通じる、運がいいマヨイビトなんだぞ。お前は」
……マヨイビト?
そういえば、さっきもそんなことを言っていた。
私の疑問符が見えたのか、黒マントは小さく肯いた。
「お前は、この世界に迷いこんだ人間、マヨイビトだ。わかるか?」
小さな子供に言うように言われて、私はこの黒マントと出会って初めて会話らしいことを口にした。
「……ここ、何処?」