獣と家庭
だって、私は、彼らが再びこの屋敷に訪れる時に居るとは限らない。
この世界で生きていくと決めた。
この領地も、好きになり始めている。
けれど、私がいつまでもこの屋敷に厄介になっているわけにはいかない。
「―――何を考えているのですか?」
夕食を終えて、客人の居なくなったリビングで寛いでいたら、そんなことを訊ねて悪魔が私の隣に座ってきた。
長椅子はたくさんあるのに。
渋々体を起こしたら、悪魔がやけに優しい目でこちらを見ていることに気がついた。
「どうしたの。ナハトさんとアーベさんがさっさと帰っちゃったから淋しいの?」
「あのお二人は、少し苦手です」
悪魔は肩を竦める。
「どうして」
「……あのお二人の温かさとでもいいますか、そういうものに馴染みがないので」
苦手だと。
「ぷっ、はははははは!」
「笑うことないじゃないですか」
「いや、だって! アンタが苦手なんて!」
しかもそれが温かい家庭なんて!
「どこかむずがゆい気分になるのですよ」
そう言って、憮然とするから余計に笑えた。
「本当に馬鹿ねぇ」
私を幸せにできないとか言うのは、この人自身が幸せを望んでいないからだ。
とっくの昔に幸せなんて言葉は忘れたみたいに。
だから、それが悲しくて、この人の隣に居ることが辛くなる。
だから、ここには居られないと思うのだろうか。
私は、この目の前の赤銅色の髪の人が幸せになることを望んでいるから。
迷い人の私では、この人を幸せなんか出来ないだろう。
だってこの人は、迷い人のせいで生まれる前から不幸を背負わされた。
ただこちらの世界に落ちてくる人、と以前、あいつは言ったけれど、この人の隣にこそ迷い人が居てはいけないのではないだろうか。
今は同情だかでそばに置いてもらっているだけだ。
それを自分に言い聞かせなくてはならないのは、少しだけ疲れた。
だから、今はむしょうに逃げたくて仕方ない。
すっと、手が取られた。
白い大きな手が私の手の先を恭しく掲げる。
「……なぁに。また女王様ごっこ?」
悪態をつかないと、心臓が跳ねそうだった。
眼鏡の奥の紅い目が、睨みつけるように真剣だったから。
「あなたも、仕方のない人ですね」
笑わない目のまま、くすりと笑われて背中を何かが駆け上がる。
「葉子」
「何?」
睨み返そうと紅い目を見つめて、失敗したと思った。
私は寛いでいたはずのリビングでまるで熊か得体のしれない化け物と対峙しているような気分になる。
逃げていいかな。
けれど、手の先だけを掴まれているだけなのに、微動だに出来ない。
「私と結婚してください」
獣が、咆哮をあげるようだった。
「な」
「あなたを愛しています」
なぜと言いかけた私の言葉を封じて、目の前の獣は掴んだ私の指先を放さない。
愛す?
意味分かって言っているのか?
二の句の継げない思いだったけれど、私の辞書にそういう項目は無かったらしい。
「たった今! 温かい家族の雰囲気が苦手だって言ったのに、どうしてそういう流れになるのよ!」
「では冷たい家庭でも作りますか?」
「嫌よ!」
誰が冷え切った家庭なんぞ始めから作りたいと思うか!
「でしたら、私に温かい家庭を教えてください」
「そういう話じゃない!」
そうだ、論点がずらされている。
「そもそも、どうしてアンタと結婚しなくちゃならないの!」
今更、だ。
騙されるみたいにして結婚に承諾したけれど、それは役所には提出されていないし、うすら寒いお世辞は山ほど言うけど、こいつは私に一切手出ししていない。
白いも真っ白、むしろあってないような結婚生活は、そもそも私と俊藍を近づけないためだったはずだ。
私のためじゃない。
そうであってはならないはずだ。
「私は、」
不本意だけど、非常に不愉快だけど、
「アンタのお世話になって、良かったと思ってる」
あいつの思惑がどうであれ、私はこの半年も、そしてこちらに強制的に帰ってきてからも、大切にされていたと思う。
「一生かけてだって返せないかもしれないけど、感謝してる」
なのに、
「―――感謝なんか要りませんよ」
低い声で唸ったと思ったら、こちらに噛みついてくるんじゃないかと思うような眼で睨まれた。
「この私が、同情だけでここまであなたを大切にすると思うのですか?」
わがままは何でも聞いてくれた。
癇癪を起こす私を何度宥めてくれたことか。
「……だって、それは私のためじゃないから!」
こいつの行動は、いつだって自分の目的のためだ。
必要なら、私はいつだって殺されていただろう。
私は知っている。
この人が、誰より淋しがり屋で、誰より優しい嘘をつけることも。
「愛してるなんて、ひどいこと言わないで!」
同情だとか、必要だとか。
そういう理由がつけられたらいいと思う。
私が、この人を好きだと思ってしまう、この気持ちにも。
自分が迷い人であることに今まで何の気持ちも抱いてこなかった。
でも今だけは、どうしてこの世界で生まれなかったのかと悔やんだ。
もしも。
もしも、この世界で生まれていて、この人に出会っていれば。
私はもっと素直に言えたはずだ。
「葉子」
優しい声に甘えて、
「泣かないでください」
私を気遣う手にすがったはずだ。
けれど、そんな夢とは裏腹に、私は自分の指先を取り返して自分の耳を塞いでいた。
「……もう構わないで」
私は、生きていく。
それにはもう迷わない。
けれど、それはたった一人でだ。
一人で、自分の行く先を見つめて生きる。
そう決めたのに、私の両手を大きな手が奪い取る。
「大叔父も大叔母も、あなたが迷い人であることを知っていましたよ」
顔を上げたら、獣の顔をやめた悪魔が優しい顔で微笑んだ。
「どうして……」
ナハトさんも、アーベさんも迷い人のせいで大変な目に遭ったはずだ。
話してくれた思い出に、迷い人を恨むような言葉は一つもなかったけれど、恨み言を連ねたくならないはずがない。
「大叔母はあなたのことを孫のように可愛くて仕方ないとおっしゃっていましたし、あの頑固な大叔父が、今度はあなたを連れて自分の領地へ来るようにと私にきつく仰せでした。……あなたは本当に不思議な人ですね」
長い指が私の頬をいつのまにか伝っていた涙をぬぐう。
「あなたのことを、優しい子だとずっとおっしゃっていましたよ」
どうして、そんな言葉が出てくるの。
私は、過去に遡ってナハトさん達を助けることも、この長い指の人も助けることもできないのに。
悲しくて、涙を流すぐらいしかできないのに。
あーあ、と呆れた声で私の頬をぬぐいながら差し出されたハンカチを、私は何も言わずに受け取った。
鼻水がひどい。
迷わず鼻水をかんだら、目の前の人が苦笑する。
「鼻の頭が真っ赤ですよ」
言うな!
「乙女の泣きっつらを笑うんじゃない!」
「乙女は、男の前で鼻水をかんだりしないと思いますけれどね」
「生理現象は誰にでも起こるんです」
我慢しろって?
そんな芸当出来たらこんなところに居ない。
「それもそうですね」
私の呟きに最悪な男は頷いた。
「あなたがもっと女であれば、王様でもたぶらかせたでしょうからね」
王様落として、左団扇? それは剛毅なことだ。
今の私の隣には、嘘八百並べる悪魔しかいない。
「ああ、最悪……」
「ええ、最悪ですね」
悪魔は肯いて、私の鼻水のついたハンカチを奪ったかと思うと、子供にやるみたいに私の顔の鼻水だか涙だかわからないものを奇麗にぬぐってしまう。
私は子供か。
お父さんって呼んでいいか。
「もっと最悪なことに、私にはあなたが女にしか見えない」
あなたにとって、災難なことに。
笑う悪魔が私の頬を両手で包みこむ。
私は、ひりひりする鼻の頭を撫でることも出来ずに、強引に悪魔と視線を合わせた。
紅い目が、これ以上ないほど楽しそうだ。
「葉子」
まるで、声が毒のようだった。
解毒剤はどこだ。
探している間に、混乱している私の耳にそっと猛毒が流し込まれていく。
「私に、あなたをこの腕に抱くことを許してもらえませんか」
「もうしっかり逃げられないけど!」
悪魔の手ががっちり私の頭を包みこまんばかりに抱えていて逃げられない。
小さい頭ですね、なんて鼻先で笑うんじゃない!
「もう一度言いましょうか?」
「何を!」
「あなたを愛しています。結婚してください」
繰り返されて、また泣きそうになる。
「同情なんか要らない!」
私のことがかわいそうだなんて言う奴なんか大嫌いだ!
「―――可哀想に」
だからこいつも大嫌い!
「あなたが私のことを嫌いでも、私はあなたのことを愛していますから、もうどうやっても逃げられませんよ」
「もう嘘はいらない!」
「嘘なんかつきませんよ。そういう契約をしたでしょう?」
悪魔は嘘吐きでドエスで趣味が悪くて最悪だ。
でも、約束は守る奴だと思う。
嘘をつかないで。
そう約束させた。会ったその日に。
「……本当?」
その言葉一つで、こいつは世界を変えてしまう。
悪魔は私に微笑んだ。
「このままベッドに連れ込んで既成事実でも作れば信じてもらえるのでしょうかね」
目が、まるで笑っていない。
ぎゃあああああああ! こいつ、本気だ!
しかし逃げだそうにも、私の頭は悪魔の手の中。
にっこり笑ったその顔で、悪魔は私の反応に満足したように続ける。
「私と結婚してください。葉子」
どうして私なんだ。
この広い世界の中からどうして私を選んで拾ってきちゃったんだ。
―――このときの私の脳みそは、きっと気絶寸前だったに違いない。
「ほ、保留で」
咄嗟に浮かんだ返答が、あまりにも馬鹿げたものだったから。