新芽とホタテ
その北の大地には、あっというまに春がやってくる。
雪がその土地ごと閉じ込める時間は飽きるほど長いというのに、突風のようにやってくる春は瞬く間に頑固で腰の重い雪を溶かしたかと思うと、あっけないほど夏にその席を明け渡す。その夏はというと、こいつもまたせっかちだ。そしてまた、冬将軍は秋に露払いをさせてのっそりやってくるのだ。
私はだだっ広いだけの畑の真ん中で空を見上げた。本日も晴天なり。
雪が消えたらすぐに畑仕事が始まった。冬の間に用意していた麦を一斉に蒔いて、春の新芽と一緒に芽吹くのを待つ。
「奥様」
朝日を浴びてもなお青白い男が野良着で今にも死にそうな顔をこちらに向けている。いつも思うけどこの人ほんとに大丈夫か。
料理長のゲミュゼさんです。
「そろそろ朝食の時間です」
「そうですね」
私は畑の向こうの湿地からやってくる霧の群れを見止めて、私は上着の襟を掴んで合わせた。
夜明け前に海からやってくる重たい霧は、湿地と畑を通り過ぎて領地の端の山へとなだれ込んでいく。昇ってくる太陽に気圧されるみたいに山の真ん中にある湖に滝のように逃げ込んだと思ったら、そのまま湖の水となって消えてしまう。
夜明け前に眠い目をこすりながら、悪魔に山の上まで連れていかれた時は、感動というのか恐ろしささえ感じるほど奇麗だった。
私は生まれたての朝日に目を細めながら、古めかしい屋敷へと足を向けた。
今日は霧を見に来たんじゃない。
夜明け前に咲くという薬草の花を見に来た。
その変わり者の薬草は、夜明け前だけに花を咲かせて午前中には開き切り、午後には枯れてしまう。だから、その珍しい薬草があるという屋敷に近い雑木林に連れて行ってもらっていた。だから、必然的に屋敷の周りにある畑を突っ切ることになった。
冬の雪原だと思っていた土地は全部畑だったのだ。
領民たちは領主の畑も自分たちの畑も総出で耕しに来る。私も悪魔と耕しに行ったよ。そうしてみんなで一斉に掛け足でやってくる春の訪れを祝うみたいに種を蒔く。
私の感覚としてはまだ寒いほどだけど、土地の人からすればもう春は終わりで、夏の始まりなんだそうだ。
何ともせっかちなものだ。
ゲミュゼさんと屋敷に戻ると、ミセスが相変わらず薄暗い玄関で待ち構えていて、私の上着を取り上げながら私の土産話を聞いてくれた。
今日見に行った薬草の花は、水で出来てるんじゃないかというほど透明で美しい花だった。これが猛毒なのだから、見た目じゃ安心できないのは人と同じだ。けれどこの薬草の根は腹痛の特効薬だ。だから一本だけ抜いてきた。
ミセスは花のついた毒草を眺めて「旦那さまにも見せてさしあげてくださいませ」とだけ感想をくれた。
その旦那さまはというと、屋敷の主らしく食堂の隣のリビングの温かい暖炉の前でのんびりと寛いでいた。
「おはよう」とだけ言って、あいつが寝転んでいるそばの長椅子に腰かけると、眼鏡の悪魔は私に「おはようございます」と返してのっそりと体を起こした。
「今日も散策するなら、私も連れて行ってくだされば良かったのに」
「あんたいつ起きているのか知らないんだもん」
私たちはもう一緒には寝てない。
別々の部屋で別々のベッドで寝ている。
それは西国から帰ってきた悪魔から提案されたことだ。
断る理由もなかったし、私は二つ返事で肯いた。
だいたい、今までがおかしかった。子供の兄弟じゃあるまいし、ご飯も寝るのも一緒とかどんな仲良しだ。
「今度から散策に行く時には起こしてください」
「イヤ」
そんなくだらない会話をしていたらミセスが迎えに来て、呆れた顔をした。
「今日は、客人が来る予定です」
あなたも会ってください、と漬けものによく似た野菜の付け合わせを食べながら悪魔に言われて意外に思う。この漬物ね、ヨーグルトで漬けてあるのよ。結構おいしい。
今日の朝食も相変わらずお粥だ。もうトーストかシリアル並みに馴染んでしまった。
お茶を何も言わずに注いでくれたりするミセスに給仕されながらの食事も慣れてしまった。
結局、この雪国の屋敷にやってきたのはミセスの他にはゲミュゼさんだけで、残りの二人は別の仕事をしているとかで、会えるのは夏を過ぎてかららしい。
夏を過ぎたら、私がこの悪魔と暮らし始めてもう一年になる。
悪魔と契約した期限だ。
私は、未だにその先を見いだせないでいる。
私がこれからこの世界で暮らしていく上で、迷い人である事実は避けられない。
それを卑下するつもりも、嫌うつもりもないけれど、私の進む先には、西国で別れたあの女の末路が待っている。
体は老いず、年だけを重ねていく。
そのおぞましくも、孤独な未来が。
落ち着いて考えてみれば、私は同じく取り換えられた彼女にあちらに帰ることを拒否されただけだ。
もしかしたら、あちらで私と交換された彼女が死ぬようなことになれば、こちらへ強制的に帰ってくるのではないか。
けれど、だからといって、彼女が死ぬのをただボーっと座して待っているわけにもいかない。
私は私で、生きなければならない。
朝食を食べ終わって、悪魔が煙草を吸いに席を立ったところで、ミセスが来客を告げた。
しまった。どんな人が来るのかも訊ねていなかった。
ミセスに訊こうとする間に、「まぁまぁ」というこの屋敷ではまず聞かない温かな人の声が食堂に響いてきた。
チャリムを上品に着こなした老婦人だ。奇麗な白髪を品良くまとめた彼女は、私を見つけてふんわりと微笑んだ。
「こんにちは。あなたがヨウコさんね」
ふっくらとしたしわの多い顔が、馴染みのある人を思い出させて私は初対面の人の前で泣きそうになってしまった。
母に、そっくりだった。
私はなんとか取り繕って、ミセスにお願いしてお茶の用意を頼んだ。
その様子を静かに見ていた婦人は、にこにこと微笑んで私の顔をまじまじと見る。
「すみません、おまたせして。初めまして。ヨウコです」
取り繕って微笑むと、婦人は「あらあら、ごめんなさい」と笑って、
「わたくしはアーベントよ。男みたいな名前でしょう?」
慌てんぼうの両親が産まれる前に名前を申請してしまったといって彼女は笑って、「アーベと呼んでね」と私の手を取った。
「あなたに会うのをとても楽しみにしていたから、ついついはしゃいでしまったわ」
この御屋敷に来るのも久しぶり、と言って微笑む彼女は少女のようだった。
「お土産もたくさん持ってきたのよ」
アーベ婦人は私の手を取ったまま、食堂を出て案内も任せず応接間へと向かう。
この人はきっと私よりこの屋敷のことを知っているんだ。
「あの人ときたら、三日も前からそわそわとして、あれはどうだこれはどうだと言うものだから」
若い人の好みなんて分からないのにね、とくすくすアーベ婦人は笑って、
「本当はもっと早く会いたかったのだけれど、冬は足腰が冷えて痛むものだから」
申し訳なさそうにした彼女の足は、少しだけ歩くたびに重心が傾いている。
私は自分の腕が杖代わりになればいいと思って、彼女の隣に並んで歩いた。
死んだ祖母がそうだったのだ。
右足が痛むからそれを庇って歩くので、転びそうになっていたから。
応接間についたら、ちょうど悪魔がドアを開けたところだった。
「ああ、そちらにいらしたのですか」
「まぁまぁ、久しぶりねぇ。ラウヘル」
はい、とにこにこの婦人に応えた悪魔は、いつもよりも柔らかく微笑んだ。
「――何を、よそ様のうちを勝手に歩き回っている」
応接間の奥から聞こえてきた声に、婦人は苦笑して「ごめんなさい、懐かしかったものだから」と私の手を離して、私を振り返る。
「ありがとう、ヨウコさん」
そうにこやかに言って、応接間の奥に置き物みたいに座っている老紳士のそばに腰掛けた。
老紳士は婦人が長椅子にゆっくり腰掛けるのを見届けてから、私に鷲みたいな目を向ける。
真っ白な短い髪を撫でつけたチャリム姿で杖を持っているものの、背筋のしっかりと伸びた紳士だ。
私は何となく緊張して姿勢を正してしまった。
あれだ。近所に居た学校の校長先生があんな感じだった。
「あなたが、ヨウコさんか」
「はい」
緊張して応えたら、紳士の目が細くなって難しい顔をしたけれど、次にはあの置物みたいな顔に戻る。
「私はナハト。そこの、」
と、私の隣でのんびりとしている悪魔を紳士は顎で指す。
「悪たれの祖父さんの弟にあたる」
え。
じゃあ、と思わず悪魔を見上げたら、
「私の大叔父さんになりますね」
なんだ、その遠いんだか近いんだかのそれ。
でも視線に気づいて、応接間の客人たちに目線を戻したら、アーベ婦人はにこにこと、ナハト紳士は置物めいてるけどじーっとこちらを見ている。
な、なんだろう。
暑くもないのに冷や汗でも流しそうになっていたら、ナハト紳士の方から視線を外してくれた。
「――ま、いいだろう」
そう言って、私と悪魔を「座りなさい」とソファに座らせた。
当然というかなんというか、アーベ夫人はナハト氏の奥さんなんだそうで、彼らはわざわざ東の領地から来てくれたのだそうだ。
本当は悪魔が私を連れていくという約束だったらしいが、ナハト氏達の希望でこの屋敷へ来ることになったらしい。
「この屋敷は、トーレアリング家の本家だからな」
ナハト氏とアーベ夫人もここに暮らしたことがあるという。
「今では誰も使っていなかったのだけれど、ラウヘルが手入れをしていて今年はここにしばらく居るっていうじゃない? だから、懐かしいから寄らせてもらったのよ」
普段はこの屋敷は使わず、耕作地の真ん中にある小さな別荘で過ごすらしい。じゃあ、どうしてそこにしなかった。このお屋敷を掃除するの大変だって知ってるじゃないか。
思わず文句を垂れたら、老夫婦が目を丸くしていた。
「あらあら、ラウヘルも手伝っているの?」
「毎日、窓拭きに駆り出されていますよ」
悪魔がいかにも尻に敷かれています的な発言をするから、私は舌打ちをするのをこらえなければならなかった。
結露はカビになる元なんだぞ。
まぁ、アーベ夫人が笑ってくれたからいいか。
昼食は夫人が作ってくれることになった。
ゲミュゼさんはいつもの青白い顔で渋い顔をしたけれど、私も手伝うことにして厨房に入らせてもらうことにした。
夫人のお土産の中に、ゲミュゼさんも知らない食材が混じっていたからだ。
野球ボールぐらいの大きさで、黒光りするその丸い食材は、なんと貝なんだそうで。アーベ夫人が包丁の柄でこつこつと叩くと殻が半分に割れて中からホタテみたいな身が出てきた。ええええ。
それを網に乗せて焼くと磯の香りが北の小さな台所いっぱいに広がる。うまそう。これでお酒飲んだら最高だ。
私はゲミュゼさんと一緒になって夫人から貝の不思議な貝殻の割り方を教えてもらって、必死に覚えた。
包丁の柄で叩きすぎてもいけない。この力加減が意外と難しい。
「ふふっ」
夫人に申しつけられて小麦を練ってニョッキみたいなものを作っていたら、隣でブイヨンを作っていたアーベ夫人が楽しそうに笑う。
何か変なものでも作ったんだろうか。
不思議に思って彼女を見たら、アーベ夫人はとても嬉しそうな顔で微笑んだ。
「ごめんなさいね。笑ったりして」
「いえ……」
「ただね」
と、夫人は嬉しそうなまま、まるで最高の宝石を見つけたように私に微笑む。
「とても嬉しいの」
その笑顔がとても幸せそうで、私は何も聞けずに微笑み返した。
昼食が出来上がったら、アーベ夫人はミセスとゲミュゼさんも食卓に招待した。
遠慮する彼らに「我が家ではこれが普通なのよ」と言って押し切ったから、結構押しの強い人だと知った。何となく分かってたけど。
特別なものは特にないその食卓に乗った料理は、とても美味しかった。
一時間たっぷり使って煮込んでニョッキを入れたスープは優しい味で、夫人がお土産に持ってきたという魚とこの土地の野菜のムニエルは懐かしい味がした。
そしてあのボール貝はやっぱりお酒と一緒に食べたら最高だった。
こんなご馳走は、久しぶりだ。
まるで、家族と食卓を囲むような、温かいご馳走は。
昼食のあと、リビングで少し休むという夫人に膝かけを持っていったら、まだ寒い外に杖をついた人を見つけた。
悪魔はまたどこかで煙草でも吸っているんだろう。
私はミセスにショールを貸してもらって、その人を追った。
屋敷の前の畑はまだ耕していない。
雑木林が近くて、日があまり差さないからか雪がまばらに残っていてちょっと寒い。
だから、チャリム一枚で広い畑の中をさくさくと歩く紳士に声をかける。
「ナハトさん」
紳士は私に振り返って、駆け寄ってくる私を待っていてくれた。
「どうしたんですか。まだ寒いですよ」
ショールを差し出すと、ナハト紳士は私の顔とショールを見比べて、
「君が使いなさい」
とだけ言って、再び歩き始めた。
屋敷の中は不案内なところが多いけれど、屋敷の周りの雑木林なら私はだいぶ詳しくなったはずだ。
私はナハト紳士の後を追った。
ナハト氏は私が後を追っていることに当然気がついたけれど、何も言わないで杖をつきつつ雑木林を進む。
ちゃんとした、目的があるようだ。
その目的が分かったのは、十分ほど歩いてからだった。
「うわあ」
雑木林を抜けると、そこは少し高い丘になっていた。
領地のほとんどが見渡せる。
広い畑にぽつんぽつんと建つ農家。その先にのどかな街がある。その向こうには、北の海を縄張りにした漁村がある。
「――我ら、トーレアリングがこの土地に来たのは今から五十年ほど前のことだ」
目の前の景色を眺めたまま、ナハト氏が口を開いた。
「この国の貴族のあいだで、迷い人がもてはやされたのを聞いたことはあるかね」
そのせいで、悪魔の家族はめちゃくちゃになったのだ。
頷くと、「そうか」とナハト氏は続けた。
「純血淘汰と呼ばれる時代だ。迷い人の血が入らぬ貴族は蔑視の対象となった」
トーレアリング家の土地は元々、王都に近い肥沃な大地を頂いていて、豊かな交易と相まってそれは栄えていたのだそうだ。
けれど、純血淘汰の時代はそれらをあっさりと奪い去る。
「私は兄と共にこの地に置かれ、連れだった領民と共にこの土地を開墾した」
私は、ナハト氏の手を見つめていた。
彼の節くれだった傷だらけの手は、確かな苦労の跡を残している。杖を握るどっしりとした手の中に、ただの土くれから探しだした砂金のような幸せを掴んで、今ここに居るのだ。
「この地は、美しいだろう」
冬は冷たい雪に閉ざされ、その向こうは極寒の海だ。ひどい時には凍ってしまう。冬が開けても朝には氷点下で、重い霧が領地を覆う。
けれど、
「はい。とても奇麗です」
この自然のまたたきが、とても美しい土地だ。
凍える寒さを忘れるほど、いつまでも見つめていたくなるような。
「―――帰るか。そろそろ獣の動く時間だ」
帰り道、行きとは違ってナハト氏は色々な話をしてくれた。
兄弟で開墾した時、獣に襲われて困ったこと。
領地の人に幾度も助けられたこと。
お兄さんのお嫁さんが見つからず、結局お金で貧乏貴族の娘を迎えたけれど、それが不幸になってしまったこと。
そしてそれが、その息子にも伝播してしまったこと。
ナハト氏はとても悔やんでいた。
アーベ夫人はとても出来た人だったから、ナハト氏を愛してくれたけれど、お兄さんが幸せにならなかったことに、とても後悔したという。
ナハト氏とお兄さんの関係は、どことなく悪魔と先生の関係に似ている。
「本家の人間が次々に死んでいく中で、兄弟三人だけが生き残って、正妻の子のあの悪タレに一族は全てを放り投げて背負わせた」
悪魔はまだわずか、十歳になるかならないかという子供だった。
「いくら小賢しいとはいえ、あんな悪ガキを辛い目に遭わせた」
後悔している。
ナハト氏はそうぽつりと呟いた。
「―――良かった」
「何?」
もうすぐ雑木林を抜ける。
腰が曲っているから私と同じ目線のナハト氏を見て、思わず微笑んだ。
「あいつを少しでも心配してくれる人がいて、良かった」
バーリム先生だけじゃなかった。屋敷の人たちだけでも無かった。
あの人の家族が居て、良かった。
老紳士は私を見つめて、少しだけ頬を緩めた。
「ごめんなさいね。慌ただしくて」
アーベ夫人は申し訳なさそうに悪魔が玄関に用意した魔法陣の上に立って、私を見上げてきた。
老夫婦はお茶の時間を過ぎたら、夜を待たずに帰ると言いだした。
悪魔は泊まっていってもいいと申し出たけれど、彼等も色々と忙しいようで無理に引きとめることはしなかった。
「また今度、ゆっくりお話しましょうね。ヨウコさん」
「はい」
夫人の隣に立ったナハト氏は、夫人に無言で手を貸して私に向き直る。
「私の領地にも来るといい」
私はやっぱり「はい」と応えただけだった。