滝とゴーグル
怒ってしまったカルチェだったけれど、彼女は私ときちんと遊んでくれた。
翌日、幸いなことに前夜のお酒も残らなかったこともあって、カルチェは私たちをいつか話してくれた砂漠の滝に連れて行ってくれたのだ。
今日も晴天の砂漠をジープで突き進んで、辿りついた先は、
「蟻地獄!」
天然の蟻地獄でした。
砂漠の真ん中にぽっかりと空いた穴に、砂漠の砂が滝のように吸い込まれていく。それを砂漠では珍しい高い岩場から覗くのだ。
近づくと危ないので結構遠くから眺めているはずなんだけれど、どどどっという瀑布の音はお腹に響いてくる。
「この砂漠の滝は、砂で覆われた渓谷に砂が流れ落ちているんだ。そしてその砂が渓谷を少しずつ削っているから、この砂漠の滝は少しずつ広がっているんだ。―――ずっと昔は、砂漠ではなかったのかもしれないな」
カルチェの解説を聞きながら、私は変態魔術師から聞いた話も思い出していた。
あいつは、この砂漠は大昔の人の仕業だと言った。
岩場から見渡しても、砂漠は地平線のずっと向こうまで続いている。
私は砂除けのマントの隙間から、ゴーグル越しに見える砂ばかりの大地を見つめた。
人は、業深い生き物だ。
手に入れても、まだ足りないと、手を伸ばす。
「―――敵だったはずのバクスランドの領主がこうやってラーゴスタに居ることに、驚いただろう?」
私と同じようにマントを羽織ったカルチェが、マントの奥で微笑んだようだった。
「憎しみも、恨みも、私の中にはまだあるよ」
滝の音がどこか遠く聞こえる。
彼女の声が澄んだ鈴のようだった。
「けれど、彼も我々と共にある僻地の民だから」
悲しみも、いつか砂漠の砂と一緒に、滝に吸い込まれていくのだろうか。
泣いたって、叫んだって、戻ってこないものは戻らない。
「カルチェの思う通りで、間違いないと思うよ」
この少女は、きっと全部呑み込んでしまったんだろう。
それがどんなに、苦しくても。
「―――ヨウコなら、そう言ってくれると思った」
カルチェは、とても強いお姫様だ。
でも、それが時々とても不安になる。
本当は、アグリだろうがお坊ちゃんだろうが誰でもいい。
彼女のそばで、彼女を支える人が一人でも多いといい。
カルチェはちゃんと頑張ってる。
そうでなければならないはずだ。
「葉子」
―――あーそうでした。こいつも居たんだっけ。
カルチェと二人っきりで砂漠の滝を見に行くはずが、いつまにかカルチェと待ち合わせしたジープの前に居たんだよねこの朴念仁が。内緒で約束したはずなんだけど。
マントの隙間から煙草を吹かして興味なさそうに滝を見ていたあいつは、のんびりと (一応、カルチェとの二人話してる時には離れてた) 近寄ってきた。
「あなたもこちらに」
カルチェと一緒に自分の後ろに立たせたと思ったら、あいつは何を思ったのか空中に手を差し出して、一瞬で魔法陣を組み立てた。何か、他の人は呪文とかやってたはずなのに、無茶苦茶だなこいつ!
「いったいどうしたの!」
人ひとりがくるまれそうな魔術を完成させたあいつに聞いてやったら、非常識が服を着ている悪魔は昼食のメニューを応えるみたいにパイプをくわえたままのんびりと言った。
「あれは、どう見てもお友達ではないようですからね」
ドッ!
悪魔の応えが早いか遅いか。
言い終わる頃には近くの岩に何かが当たって砕けた。
おいおいおいおい!
ひゅーん! という花火が上がるような音がしたかと思えば、それは風を切ってそれは次々と飛んでくる。
真っ赤な光の球です。
当たれば、痛いじゃ済まないな!
けれど、
ドドドドドド!
目を閃光が焼いただけで、悪魔が作った魔術に全部吸い込まれていってしまった。
あとには、そよ風がふわりと起こって、あいつの煙草が漂ってきたぐらいだ。
悪魔は造作なく魔術をあしらうと、次の魔術をもう作りあげていた。
あっという間に出てきたのは、天使の頭に乗っている輪っかみたいな光の輪。
それがふわりと浮かんだかと思うと、猛スピードで散り散りに飛んで行く。
な、何だったんだろう。
呆気に取られて見ていたら、今度は悪魔の本人がこちらにやってくるではありませんか!
何ですか! 何か用!?
悪魔がぬっと手を出してきた。
そう思ったら、
ぱし!
カルチェと私のあいだにいつの間にか伸びてきていた手を取って、ぐっと握りこんだと思ったら、
ばきり!
なんつー嫌な音!
カルチェと一緒にその場を飛びのいたら、砂除けマントを着た、たぶん男が声にならない叫び声を上げてうずくまっていた。
呆気に取られて眺めるしかなかった私たちに、悪魔はのんびりと尋ねてくる。
「お知り合いですか?」
そんなわけあるか!
「―――裏切り者」
恐らく手首を折られた (なんつー馬鹿力!) 男が恨めしそうにカルチェを見上げて低い声を上げた。
「バクスランドに与する裏切り者! お前のような小娘などラーゴスタの…」
とりあえず蹴っておいた。
え、何ですか。この面倒臭い口上聞きたいの? ガマの油売りじゃないんだよこいつ。
カルチェも、この足元の男に気の毒そうな顔をするんじゃありません。
機を読むのに長けた悪魔は、さっさと男を気絶させている。よしよし。
「……ラーゴスタの民か」
カルチェは意識を失くした男を見下ろして、眉をひそめたようだった。
「領主という仕事は、そういうものです」
悪魔はカルチェを振り返ると興味を失くしたように紫煙を吹かせた。
「砂漠の滝にでも放り込みますか」
あとあとうるさいですしね、て、さすが悪魔ですね。
「―――あなたも、領主だと聞きました」
カルチェが意を決したように、ゴーグルを取ってまっすぐと悪魔を見つめた。
「領主とは、いったい何のためにあるのですか……?」
彼女はとても真面目に訊いたっていうのに、悪魔の方は肩を竦めただけだった。
「その土地から税金を搾取するためですよ。それで食べていますからね」
向こうずねでも蹴ってやろうかと身構えたら、再び紫煙を吐きだした悪魔は続けた。
「税金を徴収し、そのおこぼれで食べて、預かった金で必要な時に必要なことをする」
役目なんてそれだけです、とさして面白くもなさそうに言った。
こいつは、きっと自分の物なんか何もないと思っているに違いない。
時として、自分の命も。
「……あなたの領地の人間は、きっと幸せなのでしょうね」
「さぁ?」
カルチェさん、こいつ本気でどうでもいいって思ってるから。その尊敬のまなざしもやめなさい。
「そういえば、さっき魔術使ってたけどさ、私探すのにだいぶ手間取ったみたいだし、もう年なの?」
抗体の話は、直接聞いたわけじゃなから口にはしない。
悪魔は「そうですねぇ」と自分の手を閉じたり開いたりした。
「もう百ぐらいしか一度に術式を作れないのですよ」
「百……?」
「国でも支配するおつもりですか!」
カルチェの悲鳴で、それは一つの国で一日かけて飛び交う魔術の量らしいことが分かりました。あいつの基準は国単位か。
わかった。
こいつ、マジで馬鹿だ。
お馬鹿さんを連れて帰ると、青い顔したアグリとお坊ちゃんがカルチェを出迎えた。
なんでも、気をつけていた反政府組織が全滅したんだそうで。彼らはよくわからん理屈でバクスランドと協力しているカルチェを恨んでる人たちらしい。
それでもってセイラさんの情報でよりによって今日その組織の連中が動いたことが分かって慌ててカルチェの後を追おうとしたら、
「城の前にまとめて取り押さえられていたのです」
セイラさんの方でマークしていた連中が根こそぎ、城門の前で取り押さえられて魔術で転移してきたんだって。
事の顛末をカルチェの執務室で聞き終えた私は、隣でのんびりとパイプに愛用の刻み煙草を詰めている歩く非常識を横目で眺めた。
そりゃあ、こんなの居たらこいつの領地で悪さなんか出来ないでしょうよ。
私の視線に気付きながらマッチで火を入れた非常識は、
「簡単な捕り物をやっただけですよ。面倒はこれからですからね」
刑罰を受けさせるにも事情聴取をしなくてはならないらしい。問答無用ってわけにもいかないのか。
「術式でもお貸ししましょうか?」
ひどく疲れた顔のアグリたちに悪魔がそんなことをいうものだから、彼らは全力で遠慮した。
君たちは正しい。
あとでどういう術式なのか聞いたら、軽く二、三日はお花畑に行ける術式なんだそうで。
……聞くんじゃなかった。
二日続けて後悔に見舞われた私は、煙草をくわえた非常識と一緒に執務室を追い出された。
仕方ない。
昨日取り上げられた酒でも飲もう。
悪魔の「どこへ行くんですか」という声にふらふらと手を振って私が台所へ向かうと、すでに陣取っていたおじさんたちに酒をひとビン分けてもらうことができた。
ラッキー。
歩きながら飲むのはポリシーに反するし、子供のいない場所を選ぼうと適当に城の中を歩いていたら、いつかカルチェに連れてきてもらったバルコニーが目に入った。
瓦礫と埃まみれだった城は、その気配を消して奇麗に片付けられている。ただ、家具はまだ無いからだだっ広い。
バルコニー越しの地平線にはもう日が帰ろうとしている。
骨組ばかりの街を赤く照らして、また明日、と最後の挨拶をしているようだった。
きっと、奇麗な街になる。
バルコニーに近づいたら、ぷかりと煙が邪魔をした。
顔をしかめてバルコニーの死角を見下ろしたら、夕焼けと同じ色をした歩く非常識がのんびりと煙草を吹かしている。
ここで引き返すのも面倒だったので、私はそのままバルコニーに座ることにした。
「―――奇麗なものですね」
私がちびちびと酒を飲み出した隣で、悪魔がぽつりと言った。
「あなたの歩いた世界は、とても美しい」
「……前、一人で何ができるって言いましたよね」
あの、最悪なパーティの時に。
紫煙を吐きだした悪魔が、煙と一緒に呟いた。
「失言でした」
こういうことをあまりにもすんなり言うから、私は怒る気もなくして「まぁいいか」と思ってしまう。いつもだ。
悔しくなって酒を飲んだ。
「―――いったいどこまで私の旅を見ていたんですか?」
「ずっと、ですよ」
そう言って、悪魔は手を差し出してくる。
何、ぐい呑みはこれ一つしか持ってきてないよ。
私が嫌そうにしているのが目に入らないのか、なおも手を差しだされて、押しの弱い国で生まれた私は根負けした。
渋々、私よりも大きな手にぐい呑みを渡して酒を注いでやった。
あ、でも直接飲んでもいいよね。ビンだし。
思い至った私は隣でぐい呑みに口をつける悪魔を無視して、酒瓶に口をつける。あーうまい!
「―――ここで、カルチェ嬢と夕焼けを見ていたのも知っていました」
だから、ここでこの景色を見てみたかった、とぐい呑み泥棒は呟いた。
「そういえば、カルチェ嬢の体を褒めていましたが、世の中には色々な趣味の方がいますからね」
「たとえばどんな?」
私はむっちむちのお姉さまが好きです。カルチェのような隠れナイスバディも大好きです。
「あなたの細い足は、撫でまわしてみたくなりますね」
ぶっっっっっっ!!!!!
―――……あーあー、せっかくのお酒噴いちゃったよ……。
バルコニーから見える夕陽に向かって酒噴きだすとかどういうバチ当たり。ズボンはいてるけど思わずチャリムの下に自分の足を畳んでしまったよ。
「そういう目で見る輩もいることを忘れないでくださいね。私の可愛い奥様」
「だーかーらー結婚してないんでしょうが! それに、」
私には手を出さない契約のはずだ。
睨んだ私を悪魔は横目で見てから、すぐに夕日に視線をやってしまう。
「―――伯爵から連絡がありました」
「伯爵から?」
「西国の王が、あなたに会いたいそうです」
私の、空白のひと月あまりを共に過ごした、あいつ。
あの娘の記憶はもう私の中にあるけれど。
私の隣の赤銅色の髪よりもっと鮮やかな血色の髪の王様を愛した娘。
「……断ってもいいですよ」
夕日の中の悪魔がささやくように言う。
「私は、会ってほしくない」
それがあまりにも頼りないから、私は溜息ついでにあいつのカラになったぐい呑みに酒を注いでやった。
仕方ない。
こいつも連れていくか。