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とりかえっこ漫遊記  作者: ふとん
192/209

冬と丘

 伯爵の領地の日没は一瞬だ。


 夕焼けは長いけれど、日が落ちれば瞬く間に辺りは暗くなってしまう。

 今は冬のせいか、その変化は顕著だ。


 薬草の植えてある庭を抜けて、森に走りだす。


 夕焼けも消えかかった森は薄暗い。それでも、この西国の森は見通しがきく方だから、私は行き慣れた道を走る。




 私は逃げてばっかりだ。



 辛いこと、苦しいこと、嫌なこと。

 それらは大挙して私に向かってくる。そんなものに立ち向かうなんて嫌を通りこして、条件反射で逃げてしまう。

 もしかしたら、私は身に余るような幸せなことからも、怖くなって逃げ出してしまうのかもしれない。

 怖いのは嫌いだ。

 

 今だって、怖くなって逃げてきた。


 

 もしも、あの人に裏切られたら。


 この世界に戻ってきてしまった私を一番に迎えたあの人に、もしもひどい言葉を投げられたら。



 もう私は、私でいられないかもしれない。



 怖かった。


 

 あの、優しい紅い目で見つめられたいと思う自分が、何よりも怖かった。


 一度はあの人の手を掴んだ。


 けれど、今はそれが本当に良かったのか分からない。


 だって、あの人は、私をどう思っているのか分からない。


 待っていてくれたから、同情ぐらいはしてくれているのかもしれない。

 異世界に無理矢理巻きこんだ私を憐れんでくれているのかもしれない。


 きっとそれだけで良かった。


 今までは。


 私は生きていくだけで良かったから。

 それ以上は、望んでいなかったし、考えられもしなかった。


 なのに、何より大事だったはずの自分の命を、私は今やあの人の気持ちと同じ天秤にかけている。


 どうして、あんな奴の気持ち一つに、自分の命さえ賭けなくちゃならないんだろう。


 けれど、きっとあいつの言葉一つで私の世界は地獄にもなってしまう。



 どうしてこんなことになったの。




 あの人が、ずっと私を見ていてくれたと分かって、救われてしまった。




 森を抜ければ街が見えてくる。


 よくも運動不足の体で走ってきたものだ。

 私は足を止めずに街へと飛び込んだ。


 久しぶりの街は夜支度の真っ最中だった。

 家路や買い物を急ぐ人たちで通りは昼間より盛況だ。そんな人たちの合間を街灯の明かりを入れる人たちが長い棒の先の明かり石で夕闇に温かい明かりを浮かべている。


 明らかに違う国のチャリム姿の私を不思議そうに避けていく人ゴミを泳いで、私は大通りを抜けていく。


 見知った人はいなかった。

 お菓子なんかを売っていた関係で、この街ともだいぶ親しんだと思っていたけれど、すれ違う人はみんな知らない人ばかり。


 

 知らない場所に、来てしまったんだな。



 それが当たり前だと思っていた。

 でも、私の実家の近くの商店街は、知り合いばかりとすれ違う。幼馴染や近所の人、―――たまに家族とだってばったり会う。

 それも当たり前だった。



 ああ、どうして思い出したりしたんだろう。



 この街にだって楽しい思い出があったはずだ。

 なのに、どうして。


 どうして、もう戻れない世界のことを思い出したりするんだろう。



 大通りを抜けると、建物もまばらになる。

 商店街のある地域は人が住んでいるけれど、この先にあるのは牧場ばかりだ。だから農家がまばらにあるだけで、道は舗装もされていない。


 街灯もほとんどないから、次第に街明かりも日の光も消えていく中、私は夕暮れの切れ端だけ引っ掛けている薄暗い丘に向かって歩いた。


 いつか、ホストの庭師とやってきた丘だ。

 道はよく覚えていたけれど、暗くなった丘は暗闇のドームみたいだ。

 まるで明かりのないトンネルへと向かうようだったのに、私はさっきまで感じていた恐怖が薄れていくような気さえしていた。


 どこへ向かうのか、迷っているのかさえ分からなくなるような暗闇。



 いつだって、私の中にあった穴みたいだ。

   


 人に信じてもらえないというのは、自分で感じているよりも結構辛い。

 疑う言葉を向けられるたび、裏切りの言葉を向けられるたびに、じわじわと自分の心に空いた穴が広げられていく感覚。

 その穴には、辛い記憶も、苦しい記憶も全部放り込まれているから、その穴が怖くて仕方がない。


 助けてと、叫ぶことさえもう諦めてしまった。


 誰も助けてくれはしない。

 自分ではどうしようもないことでも、自分でどうにかしなければならない。

    

 いつだって、この手は、誰にも届かない。



 いつのまにか私は自分の腕をすっかり暗くなったあたりに差し出していた。


 手は空を掴む。




 そのはずだった。




 暗闇から、白い手がぬっと出てきたのだ。


 驚いた私の手を、その手は掴んで、握る。




「―――こんな時間からどこへ行こうというのですか。葉子」



 

 聞き覚えのある声が闇の中から現れる。

 私と同じ、西国では異邦人のチャリム姿。

 息の荒い私と違って少し息の乱れているだけなので、軽く整えながら私の目の前に暗闇から抜け出てきた。  

 どういうわけか、彼の手の平は汗ばんでいた。



「……魔術で追ってきたんじゃないんですか?」



 追跡魔術があるはずだ。

 けれど、当の魔術師は呆れたように肩を竦めた。


「魔術は万能ではないと言ったはずですよ。こんな距離なら走って追いかけた方が早い」



 見上げた白い顔は、暗闇なのによく見えた。



「それで、どこへ行きたいのですか?」



 眼鏡の悪魔はそう言って、指をひと振りして丸い明かりを空中にふんわりと作って浮かせる。

 明かりできちんと見えた赤銅色の髪には、なぜか葉っぱがついていた。

 気になって髪を触ろうとすると、少しだけかがんでくれた。


「……ああ、ついていたのですね」


「……どうしたの、これ」


「あなたのあとを追いかけただけですよ。庭木のあいだをすり抜けるなんて、猫のようなことをするから」


 律儀にあとを追いかけてきたらしい。

 というか、


「猫ってどういうことですか」


「では小鳥とでも言いましょうか?」


 殴ってやろうにも、私は手をがっちりと握られている。


「それで、どこへ行こうとしていたのですか?」


「ああ……」


 どうせ連れ戻されるなら、場所だけでも言っておくか。

 私は仕方なく手を握られたまま、目線で明かりに浮かび上がった道の先を指す。



「この先の丘の上の木まで」



 暗闇の中で何が見えるわけでもないけれど、逃亡先に真っ先に浮かんだのがあの場所だった。

 

 この目の前の人からただ逃げたくて。


「では行きましょうか」


「は?」


 私の手を掴んだ悪魔は、私の返事も待たずに夜道を歩きだしてしまった。


「ちょ、ちょっと!」


「行きたいのでしょう?」


 そう言った。確かに言ったけれど!


「でしたら行きましょう」


 いったい何なんだ。


「望みを叶えたら代償をとかいいだしそうなんだけど!」


「言えば代償をいただけると?」


「誰がやるか!」


「では、大人しくしていてください」


 まるで連行されるみたいだ。

 私は手を引っ張られるようにして、でも、不本意ながら自分の望みは叶えられるので大人しくついていった。


 ぼんやりとした明かりを先に行かせて道を照らしながら歩いていくと、ほどなく丘の上に辿りついた。そうしたら、


「天の川!」



 木の根元から空を見上げれば、そこは天然のプラネタリウムだった。


 冬のはずなのに、教科書ぐらいでしか見たことない天の川が見られるなんて。


「……我々の世界では、あれを死の川と呼ぶのですよ」


 はしゃいだ私の横で明かりを消した悪魔が、暗闇の中でそう呟いた。


「冬は四つの季節の中では死を表します。ですから、死者が輪廻のために渡る川が冬にははっきりと見える、ということです」


 おお、ロマンスがひと欠片もない。


「私の世界では、夏に見えるんですよ」


 仕事さぼっていちゃついていた恋人たちが神様の怒りをかって隔てられた川。


「よく考えたらまぁ当然っちゃ当然なんですけど」


 そういうあなたも情緒の欠片もありませんね、という外野は無視する。


「一年に一度、会えるそうですよ」


 雨が降ったらああまた来年だなーと下界から見守っているわけで。


「面白いものですね」


 確かに面白い。

 片方じゃ死者の川で、片方じゃ恋人たちの川だ。

 まぁ、ある意味むやみに入ったら死ぬほどの激流って死の川なんだけど。


 悪魔がくすくすと笑いながら、木の根元に腰掛ける。


「―――私はどうかしていましたよ」


 どうせろくでもないことだろうと思ったけれど、


「何がですか?」


 訊いてしまった。


「どうしてあなたの手を放してしまおうと思ったのか」



 ああ、やっぱりろくでもない。



 嫌な顔をしたっていうのに、悪魔は手を差し出してくる。

 隣に座れって?

 あのホストのお兄ちゃんは自分の上着敷いてくれようとしたよ?



「私の膝でよければどうぞ」


  

 私は渋々悪魔の隣の草地に座り込んだ。


 あー、隣に居る奴は最悪だけどやっぱり気持ちいい。



「……ただ、あなたが幸せになればいいと思っていたのですよ」


 星空を見上げながら、ぽつりと悪魔が呟いた。


「手段も過程も、何でも良かった。あなたが幸せなら」


 けれど、と悪魔はかすかに笑う。



「あなたのそばは、心地いい」



 星を眺めていたはずが、紅い目に捉われる。


「お転婆な子猫を飼っているようで、楽しかった」



―――ええ、ええ。まぁ、分かっておりましたけれど。

 いつだったか、顔だって引っ掻いたこともあったね!


「妙齢の女性に、しかも妻だって人に言うセリフじゃないですよね!」


 おや、て顔で笑うのはやめろ!


「妻で居てくれるのですか?」


「結婚証明書見つけたらすぐにでも出ていってさしあげますよ!」


 犯罪者で悪魔の妻なんか冗談じゃない!


「あんたのせいで離婚歴とかつくなんて身の毛もよだつわこの外道悪魔! 必ず証明書見つけて燃やしてくれる!」


「またあなたの花嫁衣装が見られるならいくらでも儀式は執り行いますが?」


「い・ら・な・い!」



 あーあーもう馬鹿だ!

 穴があったら入りたい。

 辛かろうが苦しかろうが、この悪魔がいないならこの際どこだっていい。

 とりあえずこいつの居ない場所でゆっくりのんびり、平穏な暮らしがしたい!

 あれだ、こいつを好きだとか思ったのは吊り橋とかそういうあれだ!

 こっぱずかしいから全部忘れよう。そうしよう。

 遅れてきた青春ってやつです。

 あーぐあー黒歴史だー!


 私は情けなくて泣きそうになりながら叫んだ。



「ぜったい出ていってやる!」

 


 けれど、敵はさるものだった。



「せっかく西国まで来ましたからね。砂漠まで足を伸ばしましょうか」



 私の黒歴史はあっさりと私の心の端を掴んでしまう。


「このまま世界旅行へ行ってもいいですね」



 私の言った、お願いだ。


 私は何も応えたくなくなって、ごろんと草原に寝転んだ。

 影絵みたいな木の枝と星空がよく見える。


 一年という期限。

 それは、そのままあいつの抗体の寿命だ。


 

 私は星空を仰いでいる赤銅色の三つ編みを見つめる。



 この人は、自分の残りの寿命を私に賭けていたのか。



 そんなもの、いらないよ。

 どちらが勝っても悲しいばかりの賭けなんかいらない。


 


 私は、あなたに幸せになってほしいのに。



 

「葉子」



 そう呼ぶ声が、聞こえなくなることがこんなにも苦しくなるというのに。



「―――寝てしまいましたか?」



 そうやって、私の額を撫でる冷たい手を失うことが、恐ろしいのに。



「―――葉子」



 どうしたの、と答えることも出来ず、私は夢に呑みこまれていく。



「私はね」



 冷たい指先が私のまぶたをなぞっているような気がした。



「あなたの姿があの戦場で見えなくなったとき、本当に探しましたよ」



 闇夜に溶けだすような声は、夢なのか、現実なのか。



「探して、探して、それでも見つからなくて」



 溜息をつくような、優しい声。



「気が狂いそうになったのですよ」



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