風邪とさつまいも
「雪の中を裸足で歩くような方に何をしていただかなくともこの屋敷はわたくし一人で管理できておりますので奥さまはご心配なくお休みくださいませ」
慇懃無礼を粘土みたいにこねて形にしたら、きっと今のミセスになるんだろう。
裸足で雪原へ飛び出した私は、ミセスに散々叱られた。そりゃあもう、季節外れのスコールの雷にだって負けないぐらいしつこく。
頭がくわんくわんになったところで手足をお湯でもういいっていうほど温められてベッドに押し込まれた私は、案の定、風邪を引いた。
熱が出てぶっ倒れている間、暇を持て余しているらしい悪魔が食事時にやってきては、私に「今日も奇麗ですよ」などとくだらない話を聞かせて煙草を吹かすものだから、私は寒いというのに窓を開けて温かいリゾットを食べるという奇妙なことをしなくてはならなかった。病人をなめているのかあいつは。
私が自暴自棄になっている間は顔の一つも見に来なかったくせに、私が氷嚢を頭の上に乗せている状態の文句もままならない時にやってくるなんて。
「風邪がうつるんで、出ていってもらえますか」
痛む喉でわざわざ言ってやったのに、
「あなたの風邪なら喜んで」
にこにこと言ってるんだから、私の体で悪化した風邪菌が凶悪になってあいつにうつればいい。
どうしてこんな男が好きだなんて思ったんだろう。タチが悪い。
この厄介な人を好きだと自覚しても、私の口はまるで甘い言葉の一つも吐き出さなかった。きっとそういう容量がないんだろう。
そういえば、中学の時好きになった人にも結局告白もしなかった。
きっと、この悪魔にも、何も言えないんだろう。
だいたい結婚してるけど本当に旦那だなんて思ったこともないし、この性格のねじれた悪魔とまともに恋愛できるスキルもありません。無理だ。
私がくだらない結論を出して風邪を治したら、雪原の屋敷に伯爵がやってきた。
伯爵はいつもと変わらない顔だったけれど、言葉少なにすすめられたソファに腰掛ける。
珍しいことに伯爵は一人でやってきた。いつも誰かがそばに仕えているのに、今日は従僕のサルミナどころかガリアさんも一緒じゃない。本当に一人で、魔術で転移してやってきたらしい。
見慣れないサーコートに雪をくっつけた伯爵を見た時は驚いた。
ソファにゆったりと腰かけたもののミセスの入れたお茶のカップは一瞥しただけで、伯爵は静かに正面の私を見遣る。
私は、というとようやくベッドから出てきたものだからおばちゃんチャリムのままだ。しかもミセスに着せられた綿入れ付き。
私も一人で伯爵と会うのは久し振りだ。
屋敷の中心にある、少し小さめのこの応接間に入るまではいつかのように悪魔が如才なく伯爵に挨拶したり、私に付き添ったりしていたけれど、ミセスがテーブルにお茶を並べるのを見届けてから部屋を辞してしまったのだ。
久しぶりに伯爵と話すのは、少しだけ気が重かった。
伯爵はいつも自信にあふれた人だから、今のやる気のない私を見てがっかりするのではないかと思ったからだ。―――この人に失望されるのは堪える。
けれど、伯爵は緊張している私に「元気だったかね」と少し的外れな質問をしたきり押し黙ってしまった。風邪を引いていたことは、屋敷にやってきた時にあいつが話したはずだ。
伯爵は私の前では煙草なんかをやらないから、本当に沈黙になる。
この屋敷は、前居た屋敷よりも輪をかけて静かだ。今ここには私と悪魔とミセス以外に住んでいない。他の三人は他の仕事に出かけてしまっているので、春までこの北の領地には来ないのだそうだ。だから、暇つぶしにあの人外をからかうことも出来ない。サリーは元気にしているんだろうか。
私は仕方なく自分に置かれたカップを手に取る。口をつけると甘かった。お茶に、蜂蜜みたいなものが入れられてある。
朝ごはんを半分残したから、ミセスがわざわざ私用に入れてくれたんだろう。お茶菓子は、私がこの前珍しく全部食べた、さつまいもによく似た甘い芋のお饅頭だった。これ、大学芋に似てて結構好きだ。でも喉に少し詰まる。そして今もちょっと欲張って口に頬張ったから、慌ててお茶を飲んだら、伯爵と目が合ってしまった。……すみません。
私を呆れたように見ていた伯爵だったけれど、やがて苦笑して、自分に出されていたお饅頭の皿を私に寄越してくれた。
「……いいんですか?」
食べちゃいますよ、と訊いても伯爵は笑うだけ。美味しいのに。
だから、私は半分にお饅頭を割って伯爵に返した。
「ありがとうございます」
「……半分だけでいいのかね」
「伯爵も、味見だけしてください」
美味しいですから、と言ったら、今度こそ伯爵は笑った。
「……まったく」
呆れて笑って、伯爵はお饅頭に手を伸ばして、一口に半分を口に放り込んでしまうと「うまいな」とまた笑う。
「そうでしょう」
「食い意地ばかり張った困った娘だ」
伯爵の、おかしくてたまらないという風に笑った顔は初めて見た。目尻に笑いじわが出来て優しそうに見える。いつもそうしていればいいのに。
「―――今日、私がここに来たことを、君は不思議に思っているのだろうね」
お茶を飲んでお饅頭を胃におさめたら、見計らったように伯爵がじっと私を見る。
「君が、あちらに帰れなくなったことは、聞いたよ」
その経緯もね、と付け足して、伯爵が新緑によく似た目を細めた。
「―――辛かったね」
辛かった、んだろうか。
私は、
「……私、ひどいことをしてきたんです」
自分ばかりが辛いと思っていた。
でも、伯爵の顔を見ていたら、それは、
「―――二十四年も、育ててくれた親に、ありがとうの一つも言わないで、帰ってきちゃったんです」
私の驕りだと思った。
「突然帰って、結婚の報告だけして、心配してくれた人を放って」
帰りたい、なんて私のわがままだ。
辛いのは私だけじゃない。
「―――なら、私が聞こう」
静かな声が言った。
「君の感謝も謝罪も、私が聞こう。―――それが、親というものだからね」
顔に入れ墨が走った自慢のパパが今にも泣きそうな顔で、言った。
その晩、外はひどい吹雪になったけれど、夕食を一緒にとった伯爵と、悪魔とミセスまで交えて私たちは長い時間、思い出話をした。
伯爵が小さい頃、連れて行ってもらった草原で虫の巣をつついて大騒ぎとなって怒られたこと。悪魔はお兄さんに連れられて、散々山歩きさせられたこと。ミセスが若い時、意外にもおてんばでバイクみたいな乗り物が好きで乗り回していたこと。
私が小さい頃、父に連れられて行ったキャンプ先で、弟と競争して木に登ったくだりでは、他の三人が「なるほど」と大きく肯いた。なぜだ。
話せば話すほど、思い出は尽きなかった。
ケンカしたことも、怒られたことも、嬉しかったことも、悲しかったことも、全部優しい思い出だった。
私って、幸せだったんだ。
それが悲しくもあって、淋しくもあったけれど、それよりも幸せで泣いた。
いったい幸せって何なんだろう。
空気みたいに掴めなくて、風みたいに去っていく。
だからこそ、大切なんだろうか。
翌朝、朝食を終えた私を伯爵が手近な応接間に呼び寄せた。
今日にも伯爵はここを発たなくてはならないという。忙しい合間を縫ってきてくれたんだ。
「―――ラウヘル宰相に、頼まれたことが二つある」
一人用のソファが二基とテーブルしかない部屋で、伯爵は静かに切りだした。
「君は、王都に戻る気持ちはあるかね?」
私が見つめ返すと、伯爵は続ける。
「―――君にとっては、辛い思い出の場所だろうが、王のお膝元で騒ぎは起こしにくい。君の身の安全のために、王都に戻ってはどうかと」
「……でも、」
「ヘイキリング王とお后は、先頃、離縁された」
離縁。
そんな。
でも、と心のどこかが安堵した。
これでもう、彼女は私と俊藍に振り回されなくて済む。
それから、と伯爵は付け足すように言う。
「ラウヘル宰相と君の結婚証明書は、本当は提出されていない」
だから、と伯爵は片眼鏡の奥の目を細める。
「戸籍上は、君とは結婚していないんだ」
結婚、していない。
どうして。
「今までの生活がある。事実婚とは認められるが、戸籍上では君は彼の妻ではない」
どうして、
「王都へ行くことを望まない時は、私が君を養女として伯爵家に迎え入れる用意がある」
あなたも、私を捨てるの。
「―――君が望むなら、私と一緒に来るかね?」
私は、結局そういう星の巡りだか運命なのだろうか。
いつだって、信じたら、手をすり抜けていく。
「……私の植えた薬草、元気ですか」
伯爵は吐きだすように「ああ」とだけ応えてくれた。