吹雪と雪原
東国の北の端にあるというこの領地は、春が近いと評されながら未だ辺り一面雪景色だった。
この辺りでは、雪がない時期の方が珍しいそうで、雪なんか冬に数回、しかも積もることは稀という地域で育った私にはこちらの景色の方が物珍しかった。
冬の間には、日の光さえ吹雪に遮られて人の往来さえなくなるというから、最近の暖かい日差しは、この土地の人々にとっては春のきざしと見えるらしい。
私は、広いベッドとたった一つの椅子だけが置かれたただ広いだけの部屋で、小春日和とでもいいたくなるような日差しを浴びてぼんやりとしている。
起き上がれるようになったのは、つい先日のことだ。
半年以上もあちらの世界にいたはずなのに、こちらでは三カ月強の時間しか経っていなかったらしい。不思議なことに体だけは治っていって、私の体は痩せ細ることもなく、ただ眠っていただけだったらしい。しかし眠ってばかりだった体がすぐに動けるはずもなく、私は弱った胃にミセスが作ってくれたというリゾットを少しずつ入れて体力を回復させていった。
私の意思とは関係なく。
ミセスが無駄口を叩かないことは百も承知だったけれど、彼女はここにきて更に無口になり、私に食事の用意や他の生活のことを手伝ってくれる間中も、ほとんど口を開かない。私の方も、おしゃべりをする気にはなれず、ただここは何処なのかという問いを口にした記憶しかない。
どうしようもなく、自分が疎ましかった。
こうして自分で満足に何もできない生活は否応なく自分の無力さを自分に突き付けてくるし、希望だったはずの帰還を否定された私に、今更何ができるとも思えず、私はただひたすらに自分を蔑んで自分の殻に包まることを良しとした。
私は、こちらに帰ってこざるをえなかったことを嘆いたけれど、それと同時にあの人の元へ帰ってきたことに暗い喜びも覚えた。
あの人、あの悪魔であれば、私の望みどおり私を己であることすら分からないほど壊してくれるのではないかと思ったからだ。
実際、あの人に抱きついた時、私は体だけではなく心まで砕いて、何も残らない塵にしてくれればと思っていた。泣きながら、それを口にしたかもしれない。
けれど、あの赤銅色の髪の悪魔は私をただずっと抱き締めるだけで、私が泣き疲れるまでベッドの脇でそばに居てくれただけだった。
私は切実な自分の願いを聞きながら無視し続ける彼をなじりもした。
でも、結局、悪魔は疲れた私をベッドに寝かせて、私が眠るまでそばでじっと私の額を撫で続けた。
私は、そんな悪魔を睨みながら眠りについた。
その日から、彼は私に顔を見せていない。
こちらに落ちてから、日にちを数えることすら放り投げていたのであれから何日経ったのかも知らない。時折やってくる吹雪が窓を叩く音しかしないこの屋敷の部屋から出ようという気力すらなかったから、私はただぼうっとベッドの上で過ごしている。ミセス以外に来客はない。屋敷には、他に人が居ないのだろうか。
その確認さえ、起き上がれるようになった今日までまったく気にさえ留めていなかった。
勝手なものだ。
死にたいと願いながら、今もまだ生きようと食べ物を口にしている。
―――今、死んだところで、私は何処へも行けず、ただこの雪ばかりの土地に眠るだけだ。
そんな打算が浅ましくてならなかった。
いったい、何処へ行けばいいんだろう。
きっと、ここから出ていったとしても、誰も留めはしないだろう。
どこへ行ったって、ただ生きるだけなら私は生きていける。
それが、たとえ抜け殻のようであっても。
けれど、そんな生に何の意味があるんだろう。
生かされてきた。
そう思う。
でも、今はそれが重い。
自分の命の重みで潰れてしまいそうだ。
私は、感謝と恵みだけで生きていける聖人じゃない。
みんなに感謝ばかりして、何も返せないことに自分の影を細い針で縫い止められているような気さえする。
死んではならない、生きて何かを成せと、出会った人の数だけ針があるような。
時々、自分が標本の虫になったのではないかと思う。
異世界から来たというだけで、物珍しがられる、それ。
だからこそ生かされているのだと思えば、指一本動かす気にもなれず、私は起き上がれるようになったもののベッドの淵で窓から見える雪原を眺めているだけだった。
いっそのこと、このまま雪に埋もれてしまえば。
あの雪原に埋もれてしまえば、きっと誰にも見つからないだろう。
誰にも見つからず、誰にも迷惑をかけないで、時が経てば、きっと忘れられる。
いつの間にか暖かったはずの日差しは消え、窓の外には曇天が広がり始めている。
また、吹雪がくる。
私は、シーツだけを寝巻きの上に羽織って、ベッドの端から立ち上がる。
多少ふらつくのは仕方がない。
危うい足取りでしがみついた部屋のドアに、鍵はかかっていなかった。