クッキーと大吟醸
「色々事情があって、一国の宰相やってる人と結婚してね。今は面白おかしくお貴族夫人やってるってわけ」
このチャリムも自前なのよーって言ったら、母は目を丸くした。
「それで、エーデルは……?」
うるさいな。このガキは。
「大丈夫。ちょっと体借りてるだけだから」
皮肉って笑ってやると、弟の顔が強張った。
あーやだやだ弟って。図体ばっかりでかくなって手間ばっかりかかるんだから。お姉ちゃん心配だわ。
「ねーお母さん。私、すぐにあっちに戻らなきゃならないんだけどさ」
困惑気味の母に私は甘えるように笑った。
「コーヒー飲みたいから、入れてくれない?」
母は、我に帰ったみたいに「ちょっと待っていなさい」とぱたぱたと台所へ向かった。ウチのキッチンは対面式とかそういうのじゃなくて昔ながらの分離型。だからリビングからはちょっと離れてる。
「……葉子、お前、帰るって…」
「結婚したって言ったでしょ」
お母さんが台所に入ったのを見届けてから、お父さんがしわの多くなった顔をちょっと歪めた。この人のこういう人の顔色うかがっちゃうところ、私もばっちり引き継いじゃった。そういえば、そろそろ定年退職だったね。
「私のお酒、飲んでいいよ。大吟醸も入ってるから」
お祝い、してあげられないしね。
「そういやイツキちゃーん。アンタ、就職大丈夫? この家にアンタをニートさせる余裕なんかないのよ? ちゃんと働きなさいよ! 自分の食いぶちぐらい自分で稼いで当たり前なんだからね」
私は弟の胸を軽く叩いて言ってやった。
でも、愚弟は何も言えないみたい朴念仁で、顔をしかめただけだった。
ビー!
時代遅れのインターホンのベルが鳴る。ああ、来たね。
「私が出るよ」
そう軽く言って、玄関に向かう最中も私はリビングのドア変わったんだな、とか玄関先の変な土産の置き物増えてないか、とか考えながら玄関ドアを開ける。
「……葉子」
わーお、迫力。
何か挨拶でも、と思ったら狭い玄関で長身のスーツに抱き締められる。
さすが外国式。
目線が近くなったなぁ。
「久し振り。ステファン」
ああ、とステファンは私の肩口で頷く。こういう感じは変わってない。ステファンだ。
「そういえば、ステファンって赤髪じゃなかったっけ?」
「……この色は目立つからと、向こうの両親に染められていたんだ」
両親が居なくなったあとはステファンがひと月に一度自分で染めてたんだってさ。旅は一か月ぐらいだったから私は気がつかなかったみたいだ。確かにこんなハニーブロンドは目立つ。
「……ステファンの知らないところ、まだあるんだね」
私は、あの十歳の少年のことを一番よく知っている気でいた。
「葉子……お前は、俺の何を知っているんだ」
くすくすと楽しげに言って、ステファンは私を自分の腕から解放してくれる。でも、
「―――二時間しかいられないとは、どういうことだ?」
碧眼が笑ってない。いつのまにこんなおっかない人になったんだ。少年。
「説明するから」
私はステファンを連れてリビングに戻って、家族を集めた。
「改めて、今までお世話をおかけいたしました」
湯気の立つコーヒーカップを手の中に置いたまま私は頭を下げる。
「さっきも言ったとおり、私は二時間、あと何分か知らないけど一時的に帰ってきただけだから」
「だから、それはどういうことだ?」
厳しい視線を私の隣から投げてくるのはステファン。怖い。
「私、あっちで結婚しちゃっててね。それに、私を帰すすべはないって言われてるの」
ステファンが息を呑んだ。
「魔術が効かないのは治しようがないみたいでね。今回は、こうやって私と入れ替わりにこっちに来ちゃったエーデルの体を借りてるの」
「結婚したって……相手はどういう人なの?」
母が心配そうに、でも手作りのクッキーを勧めてくれたから遠慮せずに食べる。そうそうこれこれ。アーモンドが入った、お母さんの味だ。
「優しい人だよ。私にすごい贅沢させてくれるの」
本当に、贅沢を。
「庭が広くてね。あ、トレッキングもできるぐらいの森もあるんだよ」
羨ましいでしょ、と父に言うとしわの多くなった顔が苦笑した。
「お屋敷の人たちも優しいし、毎日楽しく過ごしてる」
そう、楽しく。
「だから、心配しないで」
ごめんなさい。
「エーデルをこれからもよろしくね」
私は笑った。大嫌いなコーヒーで自分をごまかして。
口うるさいけど、お菓子作りが得意で天然な母。
寡黙で、でも心配症で優しい父。
馬鹿でクソガキで、私の一番の理解者だった弟。
嘘をつく私を許して。
母は、何か言いたそうな顔をした。
けれど、何も言わずに泣きそうな顔で微笑んでくれた。
ああ、わかっちゃったんだね。
でも、言わずにいてくれるんだ。
私の一世一代の嘘を、黙って受け入れてくれるんだ。
ごめんね。お母さん。
もっと、あなたと話していたかった。
「―――幸せになりなさい」
幸せ。
なんて曖昧で、なんて残酷な言葉なんだろう。
それを他人に押し付けていた自分が、とても恥ずかしくなった。
「ステファン」
「……行くのか」
「うん。ステファンの育ての親の人見つけたら、よろしく言っておいてあげるから」
頷いて、手を握られる。
「……行くな」
成人した彼の力で握られると痛い。でも、私はステファンの手を振り払わなかった。
だって、ステファンは、やっぱりあの頃のステファンだったから。
見捨てられる淋しさを、私は知っているから。
私はステファンに手を握られたまま、君島家の顔をひとりひとり見つめる。
家族に会ったのは、失敗だったかもしれない。
でも、結局私がこの世界に戻りたかったのは、家族が居たからだ。
たとえ、もう居場所が無くても。
神様。
やっぱり私はあなたを恨む。
どうして私だったの。
どうして、私を、彼女ととりかえなくちゃならなかったの。
確かに私は何も出来ないちっぽけな人間です。
けれど、生きている人間です。
私みたいな取り柄のないとりかえっこは、いったいこれからどうやって生きていけっていうの。
薄れていく意識の最後に、エーデルが深く深くお辞儀をするのが見えた。
さようなら。
大嫌いな、もう一人の私。