悪魔の失敗
ラウヘルは、生まれた時から多くのことを選ぶことはできたが、持てるものはごくわずかだった。
世界の裏側まで見通す彼が今までに得たものは、並外れた魔術の才能と、たった二人の家族だけ。
他のものは全て彼のものではなく、時が経てば泡のように消えてしまう。
だが、それは、手にしていたはずのものでさえ例外ではなかった。
きっかけは、本国から知らされた凶報だった。
ラウヘルの兄が、とうとうその咎で投獄され、死刑を宣告されたのだ。
もう一人の家族であった妹はすでに十年前にない。
バーリムが、ラウヘルの兄だという事実は、結局ハイラントには告げないままだ。彼はすでに、充分悔やんでいる。むしろ、よくラウヘルに付き合ったと感謝したいほどだ。
そのハイラント自身も北の塔へと投獄された。
彼は何も知らない。だが、ラウヘルの魔術の知識に敬服し「先生」とまで呼んだ。優秀な男だ。殺すには惜しい。だから、ここで退場させた。
だが、彼が退場したことは痛手だった。
ラウヘルにはもう、以前のような魔力を扱うことがほとんどできない。
それは、幼い頃、体の弱かったラウヘルに無理矢理埋め込まれた魔術の抗体のせいだったともいえるし、それを酷使させすぎたラウヘル自身のせいだ。
それに気がついたのは、戦場で見失った彼女をどうしても探せなかったから。
どうにか人脈を通じて知った西国の混乱は、七十七師団を擁する怪物伯爵によって収まりつつある。
そろそろ、ラウヘルが最期の仕上げに表舞台に立つ日も近い。
弱まっていく魔力と再生能力の残り時間を見据えながら、ラウヘルは暇さえあれば、自分の魔術の残滓を探し続けた。
地獄へ行くのはラウヘル一人だ。
何も持たないまま、たった一人で死んでいく。
だから、道連れがあってはならない。
―――ひと月経ってようやく見つけた彼女は、見るも無残な有様だった。
腕の火傷は治療されていたが、戦場での後遺症で自分を失い、また利用されようとしていた。
どうにかしたいが、忌々しい伯爵の影響で今のラウヘルでは師団の魔術師の網をかいくぐる術式を作りだすことが出来ない。
だから、危険だと分かっていたが、伯爵が飼っている情報屋に彼女の情報を掴ませた。きっと、この情報から、伯爵はラウヘルの存在を知るだろう。
この身以外に差し出せるものはなかった。
伯爵は彼女を東国との縁続きの者と確認して、彼女を保護した。
娘の居場所が確かになれば、監視をすることは容易い。
ラウヘルは伯爵領へ向かった彼女の元へと再び術式を送った。
一度断ち切られた干渉の術式を修復するには時間がかかる。恐らく、師団の中に居る魔術師が、炎の妖精たちを作りだしている術式を断つために、あの戦場にあった魔術の術式の循環をすべて停止させたのが原因だ。その断ち切られた循環を一つずつ繋げなければ、彼女にかけた術式は戻らない。
そうまでしなくてはならなかったのは、彼女の後遺症があったからだ。
彼女の後遺症は、人格の喪失だけではなかった。
戦場で別れた戦乙女たちとの最期、別の女として生きたひと月の間の記憶、それらがふとした瞬間に訪れるので脳が混乱して、彼女の体を硬直させる。
夜中には、必ずうなされて泣き叫んだ。
監視するだけの魔術では、彼女を宥めてやるすべがなかった。
幸い、伯爵も伯爵の部下たちも唐突に物を落としたりする彼女の後遺症による失敗を咎める者は居なかったため、彼女の後遺症は無意識下に収められていたが、治療にはならない。
魔術でやれることは、少ない。
ラウヘルに出来ることも大して多くは無かった。
ただ彼女の動向を見つめ、うなされていたら撫でてやるだけ。
せめて、誰かが彼女のそばに居てやることはできないのだろうか。
決して離れないと、彼女に約束できるような、誰かが。
伯爵が、彼女を養女にしたいと言いだしたときには、本当に嬉しかった。
これで、ようやく彼女が落ち着ける場所が出来たのだと、子供のように泣く彼女を見つめながらラウヘルは安堵した。伯爵は、ラウヘルにとって天敵にも等しいが、だからこそ彼女を任せても大丈夫だと思われた。
これで、彼女は一人で泣かずに済むと。
けれど、伯爵は彼女の手を放してしまった。
今回は彼女から離れた形だが、ラウヘルは落胆を隠せなかった。
だから、砂漠にも、荒地にも、術式を飛ばした。
そうしてまた、夜中に泣きだす彼女を撫でてやらなくてはならない。
それは北国に着いても同じで。
アルティフィシアルが彼女に興味を抱くことは分かっていた。
同時に彼女を手元に置くことなどしないと思ったから、南国のクルピエに頼んで彼女を保護させた。
ラウヘルは、アルティフィシアルの鬼火を乗っ取って彼女を見守り続けた。
何も知らない彼女。
憐れな彼女。
けれど、彼女はたった一人で旅をした。
ラウヘルという望まない供を連れていたが、たくさんの人と出会い、別れて、少しずつ強さを手に入れて。
北国で、ヘイキリングの結婚を聞いた時、一瞬だけ彼女の顔が歪んだ。けれど、それでも笑って酒を飲んだ。
ああ、とラウヘルは生涯で初めて祈った。
彼女を救ってほしい。
誰でもいい。
ただ、彼女のそばに。
ただそばに、誰かが居てくれさえすれば、彼女は救われるというのに。
そう、望んだからだったのかもしれない。
―――彼女を、妻にいただきたい。
気がつけば、すべてを投げ出してそんな言葉を口にしていた。
彼女を妻にしてからは、予想外の連続だった。
まずラウヘルの言うことを決して聞かない。
屋敷から出るなと言えば抜けだそうと試み、危ないことをするなと言えば、木に登ってみたりする。
わがままで、奔放で、そのくせ、可愛げはまるでなかった。
長年屋敷に仕えている古参の使用人も手を焼くほどで、大声で他人を怒鳴りつけたことなどないロッテンマイヤーを辟易とさせるほど怒鳴り声を上げさせるのだから、相当だ。
けれど彼女は、夜は必ずうなされた。
誰もが寝静まった深夜になると、ベッドの隣で必ず泣きだすのだ。
それを撫でて宥めてやることがラウヘルの日課になった。
魔術越しには触れることもなかった彼女の額はうなされている時はいつも火照っていて、ラウヘルの冷たい手に撫でられると次第に宥められて気持ちよさそうに眠りにつく。小さな手がラウヘルの腕を掴んで離さないこともある。
ある日、城務めからの帰りがけに、またも彼女が木に登っているところを見つけてしまった。彼女の動向が気になるのは、すでに癖だ。しかも、木から落ちそうになっている。
竜車から飛び降りて暴れる彼女を抱きとめたラウヘルは、彼女を妻だと思うことを止めた。
彼女は、悪戯盛りの子供か、子猫だ。
そう思えば、彼女が暴れても、一方的なケンカを仕掛けてきても、顔に爪を立てられても腹を立てずに済んだ。
北国からの帰り際、アルティフィシアルに告げられていた。
ラウヘルの抗体の寿命は持ってあと一年足らず。
すぐに死ぬことはないが、今までのように魔術で酷使することもできなくなる。
今までの命を狙われ続ける生活から思えば、命数が一年ということだ。
それが遅いのか早いのかは分からない。
けれど、彼女のそばにいることはできる。
そばに居る。
そう誓った。
だが、と思う。
ラウヘルでは彼女を幸せには出来ない。
幸せになって欲しかった。
本当に、ただそれだけ。
彼女が笑顔で居てさえくれれば。
聞き分けはないが、優しい娘だ。
機械の体のロッテンマイヤーをミセスと呼び、人ではない孤独なベンデルを平気でからかう。
アルンダッタへ出かけた時など傑作だった。
結局、彼女が買ったほとんどの物が屋敷の使用人への土産だったのだ。
殺し屋であるフェンがレースのハンカチを渡された時などメイドの仮面を脱いで大笑いしたものだ。
金にしか興味のないはずのゲミュゼは、日夜彼女と野菜づくりと彼女の故郷の食べ物作りに没頭して、屋敷の者たちを驚かせた。
そしてラウヘルも。
彼女を庇ってしまったことは、本当に偶然だった。
気がつけば、彼女を抱きこんでいた。
だから、泣き叫んでいる彼女を見て、ああしまったな、と思った。
彼女といると、ラウヘルは間違いばかりを選んでしまう。
傷を確かめると言って震え、ゆっくりと傷口をなぞる白い指。
蒼白になった彼女は、初めて起きている彼女を目の当たりにした時のように頼りなさげで。
いっそ、自分の物にしてしまおうか。
そんなことさえ考えた。
繋げるものはすべて繋いで重石をつけて、彼女をこの世界に、ラウヘルのそばに。
決して、これ以上傷ついて欲しくない。
ラウヘルが差し出せるものは本当に少ない。
だから、彼女のために残った全てを差し出すつもりだった。
何でもいい。
必要ならば、命さえも。
―――大切だった。
いつもの間にか、こんなにも大切になっていた。
こんなにも、大切に思っていたことに気がつかなかった。
ガルニーアトが何かを仕掛けてくることは分かっていた。
若い后があの女狐の手に容易く落ちることも。
すべて分かっていたはずなのに。
彼女に目を奪われた。
ラウヘルの腕を引っ張った彼女は、それは美しかったのだ。
淡く笑った、その微笑みに囚われた。
―――許してくれ。
脇をすり抜けていった彼女の腕を掴めなかった。
―――この愚かな男をどうか許してくれ。
倒れこむ彼女を抱えて願った。
これがラウヘルの罪なら、もうこれ以上は。
これ以上は耐えられない。
浅い呼吸で「ごめんなさい」と繰り返す彼女が憎かった。
どうして、こんなにも愚かなのだろう。
裁かれるべきはラウヘルの方だというのに。
彼女は、呟くように言った。
―――泣かないで。
涙など、もう無い。
残されているのは、冷たい剣と彼女の命の軌跡だけ。
なんて滑稽なことだろう。
そばに居る。
そう言って救われていたのは、本当はラウヘルの方だったというのに。
「……旦那さま。少しはお休みになられてください」
寝室へと入ってきたロッテンマイヤーが静かに告げた。
「そのような旦那さまを目にされては、奥様がどうおっしゃるか」
きっと彼女は笑うだろう。
それでいい。
思い切り馬鹿にしてくれて構わない。
ラウヘルは、ベッドの傍らに据えた椅子から、カーテン越しの木漏れ日をうっすらと浴びてベッドで眠る白い顔を眺めた。
あの後、ラウヘルは彼女を連れて北の自領に帰った。冬の雪に閉ざされた大地には世間の雑音は入ってこず、ただ静かに寒さに耐えてじっと籠もる人々を外界から切り離す。
今は他に何も聞きたくない。
ただ、彼女の声が聞きたい。
刺された傷は深くはなく、あれから三か月以上経って彼女の傷はすでに癒えている。
だが、彼女は猫のように夢の中へと遊びに出かけたまま、未だに一度も戻ってこない。
「葉子」
もうすぐ、あなたに見せたかった領地に遅い春がくる。
だから、どうか。
どうか、帰ってきてくれ。