おとぎ話のお姫様
「触れるな」
純粋な怒りというものは、これほど美しいものなのか。
マルモアは場違いにも目を奪われた。
黒髪の美しい人を抱え上げた赤銅色の髪の男は、静かに、しかし先ほどまでの正体の分からない異質な空気を失くして、ただの男となっていた。
激情の奔流に流されまいと、ただ、静かに。
「お前は……」
マルモアの隣で、彼女と同じく言葉を無くしていたヘイキリングがかすれた声で呟いた。彼は、転移魔術の失敗を繰り返す目の前の男に駆け寄ろうとしたのだ。しかし、怒気だけを孕んだ言葉に制止された。
「彼女を、」
「今は」
一国の王であるはずのヘイキリングを視線だけでその場に縫い付けて、男は怒鳴り声にならないことが不思議なほど静かな声で言う。
「名すらあなたに触れてほしくない」
そう言った男もまた、美しかった。
立場上、顔を合わせることも多かったが、彼の印象はひどくぼんやりとしていて、印象に残るとすれば赤銅色の長い三つ編みぐらいだった。しかし、狭い部屋の中で淡く照らされた白い容貌はひどく整っている。
ヘイキリングが光なら、彼は影のような美しさだ。
彼らは似ている。
同じ女を愛したところまで。
マルモアは自分の手に流れ落ちた、今にもしたたり落ちそうな命の雫を見つめた。
なんて女性なのだろう。
憎しみをぶつけたマルモアまで、彼女は救ってしまった。
「―――この奥に、王族専用の脱出口があるわ」
マルモアは自分の後ろの緞帳を視線だけで指す。
「鍵なんて壊せばいい。あとであなたが直してくださればいいから」
美しい人たちを見遣ると、少しだけ、ほんの少しだけ男は頷いた。
「ラウヘル」
誰よりも誇り高い人が縋るように脇をすり抜けていく男を呼びとめる。
「―――頼む」
緞帳を潜り抜けようとしていた男は、振り返りもしないで彼女を抱えたまま声だけで返事をした。
「心配も、同情も、本当であればしてほしくない」
いっそ、怒鳴り散らせばいい。そう思えるほど空気だけを震わせるような声だった。
「あなたは、彼女に信頼だけ与えて、彼女の手を放してしまったのですよ」
どうして、彼女の手を放したのですか。
彼女には、あなたが必要だったのに。
男が去った後に残されたのは、彼女の命の雫だけ。
マルモアと同じ人間の。
立ち尽くす黒髪の人は、泣きださないのが不思議なほど顔を歪めているというのに、涙など枯れたとでもいうように深い溜息をついただけだった。
あの男も。
マルモアに涙を流す資格などない。
だが、どうしようもない感情に押し流されることに、資格などあるのだろうか。
立ち場や、生まれや、境遇で、感情を制御することなどできるのだろうか。
彼女は温かった。
マルモアの流す涙と同じく。
自分では止めようもない涙に流されて、マルモアはただ自分の手を見つめる。
美しい人だった。
黒髪が珍しいわけでもない。彼女の少し高い身長が珍しいわけでもない。
あの華奢な体のどこに潜んでいるのかと思うほどの、生きている輝き。
一人の人間が、ただ孤独に立とうとする。その決然とした姿。
それが美しいのだ。
決して、マルモアでは手に入らない美しさ。
思えば、マルモアが美しかったことなど一度もなかった。
陛下の后にという話は、まるで唐突に降ってきた夕立ちのような話だった。
マルモアは、血筋こそ本家筋だが、本家の次男の娘だ。本家の長男には息子しかいなかったというのがマルモアに白羽の矢が立った理由らしいが、本家から遠ざかるようにひっそりと暮らしていた両親はすでになく、本家との交流は無いに等しかった。それが、本家の前当主だという祖父と名乗る老人がマルモアが一人住んでいた小さな屋敷に訪ねてきたことから、ことは一変する。
お前を、ヘイキリング王の后とする。
厳格な口調で告げられ、両親との思い出の詰まった家を追い出された。長年仕えてくれた使用人たちから引き離されて、連れ出されたのは本家の離れで、ほとんど事情らしい事情も教えられないまま、花嫁修業に連れ回され、マルモアの意思などまるで無いまま気付いた時には婚礼の儀式の当日だった。
滑稽なことに、夫となる陛下の顔とようやく顔を合わせたのは儀式を全て終えてから。
長い黒髪が印象的な、精悍な美しい人だった。
初夜の寝具の上で強張ったマルモアに優しく微笑んで、そっと抱き締めてくれた。
優しい人だ。マルモアをただ抱き締めたまま眠ってくれたのだから。
だから、マルモアには決してそぐわない人なのだと思った。
マルモアには、年の離れた姉が居た。
マルモアと同じ黒髪だが、姿はまるで違う。ほっそりとした体、艶やかな黒髪、溌剌とした赤紫の瞳はいつも輝いていた。美しい人だった。そんな彼女が古い貴族の家に縛られることを良しとするはずがなく、今のマルモアと同じ年に家を出ていった。医術に携わり、多くの人たちを助ける職につきたいのだと。まだ存命していた両親は姉の出奔を嘆いたが、マルモアはどこかほっとしていた。
きっと、姉が居れば姉が王の后となっただろう。
幼い頃から引っ込み思案なマルモアと比べて、姉は誰からも愛された。
それが誇らしくもあり、妬ましくもあったから、姉が家を出ていってしまったことにマルモアの心は浅ましくも安堵したのかもしれない。両親は、姉の出奔を機に病んでしまったというのに。
ヘイキリングはマルモアを大切にしてくれた。
視察には常に寄り添わせ、公務は丁寧に自ら指導した。
そんな彼に、孤独だったマルモアが心を開くのに時間はかからなかった。
政略結婚で、これが恋なのか親愛なのか区別もつかなかったが、マルモアはこのまま穏やかな日々が続けばいいと思った。
たとえ、マルモアが彼に相応しくなくとも。
けれど、その願いが叶うことは無かった。
「親戚同士のよしみだ。これからもよしなにな」
そう艶やかに微笑んだのは、一人の子供を持っているとは思えないほどの美女だった。
現陛下、ヘイキリングの継母はマルモアとは親戚筋だ。先代陛下との間に一人の王子も儲けた彼女は名実ともに、後宮を支配する皇太后となっている。
ヘイキリング王の母は北城一族よりも低い家格の娘だった。
だから先代は後添えに名門の北城一族の娘を選んだと言われているが、後添えになるためにヘイキリングの母親に呪いをかけたのだとまことしやかに囁かれている。いわくつきの女性だ。
「ご挨拶が遅れて申し訳ございません」
「よい。后とは多忙だからな。隠居の身に気を使うことはない」
隠居という言葉がまるで似合わない紅唇で微笑み、皇太后、ガルニーアトは優雅にテーブルに肘をつく。
「どうだ。ここの暮らしは」
「良くしていただいております」
王の側近はマルモアをよく気遣ってくれるし、ヘイキリングには側室は居ない。だから、世継ぎを産むのはマルモアだ。そう決意したつい先日、心も体も彼に捧げた。
少しだけ笑んだマルモアに、ガルニーアトは長いまつげを少しだけ伏せる。
「そうか。……あれもようやく向き合うことにしたのだな」
ざわり、と騒いだのは風に煽られた木々か、それともマルモアの心だったのか。
訊いてはならない。
警告が頭の中を駆け巡るというのに、マルモアは口にしていた。
「……陛下に、何か?」
ガルニーアトはその美しい顔に憐憫を浮かべて、しかしマルモアの無言の催促に負けるように紅唇を開いた。
五年ものあいだ、出奔していたヘイキリングは流浪の身にあった。それは自身の呪いを解くための旅だ。醜い獣の姿へと徐々に変貌させられるという異質な呪いを解くすべは城の魔術師にもなく、彼は当てのない旅へと出た。
「この真実は、ほとんど誰も知らないことだが」
表向きには政務から遠ざかったということになっている。
しかし、一年ほど前にヘイキリングは王都に帰還した。以前にはない、威厳と決意を持ったまなざしで。
「ヘイキリングの呪いを解くには、迷い人の力が必要だった」
だが、迷い人という東国ではあまり知られていない異世界からの来訪者は、東国にはほとんど存在しない。マルモアの一族は迷い人を祖先に持つ一族だが、すでにその血は無きに等しい。
その呪いを、解いた迷い人が現れたという。
ヘイキリングに偶然助けられたその人は、ヘイキリングの呪いを解くばかりでなく、
「魂の片割れという、そういう女だったそうだよ」
魂の片割れというのは、まったくの他人でありながら合わせ鏡のように魔術的な双子のことだ。人の生涯において出会う確率は限りなく少ないが、片割れと出会えば、あらがいようもなく惹かれるという。
ヘイキリングは、その運命に導かれるまま、その女を愛した。
女もまた。
再会の約束をして別れた二人だったが、
「死んだのだよ」
マルモアとの婚礼が行われるまで続いていた西国との戦争に巻き込まれて、女は死んだという。
その、遺骸も残らないまま。
彼女は、美しい黒髪だったという。
ああ、とマルモアは思った。
やはり、愛されていたのは自分ではなかったのかと。
その魂の片割れの、美しい人に似ていたのだろう。
マルモアの、先祖がえりと言われたこの黒髪が。
ならばマルモアを抱いたのも頷ける。彼は、代わりが欲しかったのだ。
しかし、すでに心まで明け渡してしまったマルモアはそれでも良かった。
代わりとなるならば代わりとなろう。
それで彼の心が癒されるのならば、血を流すマルモアの心には蓋をしよう。
だが、そんなマルモアの心を砕く報告が飛び込んでくる。
その、魂の片割れの女が生きて、東国に帰ってくるという。
数奇な運命に翻弄された彼女が、ヘイキリングの前に。
「―――その女の処遇は、すでに決まっているよ」
いつものお茶の時間に誘ったガルニーアトはマルモアを勇気づけるように言う。
「トーレアリング宰相の妻となるのだ」
トーレアリングは得体のしれない男だ。ガルニーアトと懇意にしているため、マルモアとも顔を合わせる機会も多く、ヘイキリングも重用する若い宰相。長く城を離れていた彼が帰ってきてから、この王都は一変した。ヘイキリングは帰還し、王と、宰相の穴を埋めるべく召喚されたもう一人の宰相である北城宰相はガルニーアトによって幽閉され、マルモアの輿入れが決まった。
あの得体のしれない男の妻にされるために、帰ってくる愛しい女。
そんな女を目にして、平静でいられるはずもない。
「安心おし。今、愛されているのはお前だよ。マルモア」
嘘だ。
彼は、ヘイキリングはマルモアを愛してなどいない。
それは、彼女を目にしたヘイキリングを見た時にはっきりと分かった。
ひざまずいた彼女に駆け寄る彼は、まさしく恋人を見つけた男だったのだから。
マルモアは自分が嫉妬に囚われていくのを感じた。
けれど、女はマルモアの思いもよらない女性だった。
花も少なくなった庭でお茶を飲む。
それは后の嗜みでもあったし、マルモアの唯一の楽しみでもあった。
これで最後かと思えば、少しだけ感慨深い。
しかしさほどの落胆もないことを思えば、マルモアにすればそれだけのことだったのだと思う。
「―――行くのだね」
目の前にはいつものように、美しい皇太后。
彼女が、王太子派と呼ばれる一派の、ヘイキリングと敵対する危険な存在であることは知っていた。けれど、マルモアに甘い蜜のような情報を与えてくれていた存在だった。
「この結末は、あなた様のお望みにかなったのでしょうか?」
甘い蜜が毒だと気付いていた。けれど、マルモアはその毒さえ飲まなければ息も出来なかった。
顔色すら変えないマルモアにガルニーアトは、いつものように妖艶に微笑んだ。
恐ろしい人だ。この妖艶な美女は、己の子を王にするための布石としてマルモアに近づき、ヘイキリングへの不信感を煽るだけで追い詰めたのだから。
「いいや? お前にはもう少しヘイキリングの隣に居て欲しかったよ」
私もお前を気に入っていたしね、と真偽の分からない言葉を紅唇が口にする。
「あれが動揺すればするほど私には都合が良かった。もっと揺さ振りをかけても良かったが」
もう無駄だろうね、と言う口調は思いのほか軽かった。
「私はすでに何の力もない、ただの隠居と成り果てた」
ガルニーアトは、要職についていた縁戚の一族全てを失っている。ある者は冤罪で、ある者は左遷で。その執拗な仕打ちはまるで復讐のようだった。
マルモアを后に仕立てた北城の本家も、急速に権力を失くして今では長年仕えた使用人ですら家財道具を持ち出し夜逃げするほどだという。
皇太后であるガルニーアトに咎めはないが、彼女の息子のメルツは他国に留学へ出されるという。
「私も年を取ったということだ。お前にかまけている間に、足元を掬われてしまった」
肩を竦めて笑う。
「思えば、お前を推薦してきた時にすでに始まっていたのだろうね」
どういうことかと尋ねれば、
「お前を推薦してきたのは、トーレアリング宰相なのだよ」
あの、美しい人の傍らに立つ、やはり美しい人が。
マルモアの何処に后とする要素があったのか問いたいものだが、やはりそれはこの黒髪だったのだろう。あの美しい人と似ているとすれば、それだけだ。
「そろそろお暇いたします」
マルモアはガルニーアトの許しを待たずに席を立つ。
「短い間でしたが、ありがとうございました」
丁寧に礼をとって、席を離れる。
「―――あの娘」
マルモアの背中に呟くように、ガルニーアトの声が追ってきた。
「未だ、目を覚まさないそうだよ」
声には応えず、マルモアは礼だけ返して庭を去った。
あの後、マルモアはヘイキリングに離縁を申し出た。
すでに帰る家はない。
尼院にでも入ればいいと思っていたマルモアに、ヘイキリングは王都から遠いが小さな領地を与えてくれることになった。しばらく離宮で暮らせという声も上がったが、マルモアも承知しないし、ヘイキリングもそれに倣った。
マルモアが意外にも頑固だということを知ったヘイキリングは、苦笑したものだ。
「私は、私なりにお前を愛していた」
ある時、庭を歩いていたマルモアを見て、彼は夫婦になれると思ったという。彼女とならば、穏やかな生活ができるのではないかと。
ひどい人だ。
憎むことすら許してくれないのだろうか。
もうマルモアは彼には寄り添えないというのに。
どうして、何もかもうまくいかないのだろう。
あの時。
細い腕に抱き締められて、マルモアは悪夢から醒めた。
まるで霧から抜け出したように。
マルモアを悪夢から引き戻した彼女は温かった。
誰にも謝らない。そう決めた。
彼女の望んだマルモアの幸せは二度と叶わない。
その代わり、せめて彼女の望んだとおりに彼女とは二度と会わないとも決めた。
誰にも救われないと、嫉妬に囚われたマルモアも、彼女は抱きしめてくれたのだから。
あれから三か月が経った。
あの影のように美しい男に連れられていった彼女は、遠い北の地で今も目を覚まさない。